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イエス・キリスト(紀元前4年頃 - 紀元後28年頃、ギリシア語

数年前、ナバラ大学(スペイン)の神学部教授フランシスコ・バロをディレクターとする数名の歴史と神学を専門とする教授たちがイエス・キリストに関して寄せられた多くの質問に答えて簡単で分かりやすい説明を準備しました。

2011/09/19

1.イエスについて実際には何が分かっているのですか。

イエス・キリストについては、同時代の大部分の人物よりも遥かに多くの確かな情報があります。イエス・キリストの生涯とその死去の証人たちが伝えた資料、すなわちイエスに関する口頭の伝承と文書、中でも四福音書です。イエス・キリストが設立し、今なお存続する信仰共同体の中で伝達されてきたものです。その共同体こそ、歴史を通してイエスに従った無数の人々、最初の弟子たちが絶え間なく述べ伝えた資料を通してイエスを知った人々からなる教会です。偽(ぎ)福音書や聖書以外の文書に記述されていることがらには、忠実に教会の中で伝えられてきた福音書の正典に新たな資料を加えるものはありません。

啓蒙主義の時代までは、イエスについて知りうることは福音書に書かれてあると誰もが信じていました。しかし、福音書は信仰の観点から書かれた書であるという理由で、その内容の客観性に疑問を投げかける歴史家が19世紀になって出てきました。この人たちによると、福音書の著述はイエスの行動と言葉ではなく、イエス復活後数年を経てから主に従う人たちが信じたことであるというのです。それ以後、20世紀の半ばまで、福音書の真実性を疑問視する傾向が現れ、ついにはイエスについては「ほとんど何も知ることができない」(ブルトマン)と主張するに至りました。

今日では、歴史学の発展と考古学の進展、古代の資料に関するより多くより深い知識獲のおかげで、一世紀のユダヤ世界に関する専門家の言葉を引用すれば、「イエスについて多くを知ることができる」(サンダース)と言えます。たとえば、同じ著者は歴史の観点からイエスの生涯とキリスト教の起源に関して「疑問の余地のない八つの事実」があると主張しています。1)イエスは洗礼者ヨハネの洗礼を受けた。2)イエスは人々に教えを述べ、また治癒を行った人物である。3)弟子たちを呼び、十二人について話した。4)イエスは自らの活動範囲をイスラエルに限った。5)神殿の役割について論争を続けた。6)ローマ当局の手によってエルサレムの外で磔刑(たっけい)に処された。7)イエスの死後、彼につき従った人々が同じ運動を続けた。8)少なくともユダヤ人のある者たちが新しい運動のグループを迫害した(ガラタ 1、13.22 とフィリポ 3,6)。さらに、この迫害はパウロの宣教の終わり頃まで続いた(コリント② 11,24とガラタ5,11、また、マタイ23,34や10,17参照)。

歴史家たちが一致して認める以上の点を最低限の基準とすれば、福音書に含まれている他の資料が歴史的な観点からどれほどの信憑性を持つかについて決定することができます。資料に関する歴史的な諸基準を適用すれば、福音書に述べられていることがらがどの程度の一貫性と蓋然性を有するか、またその著述が本質的に確実であるか否かを確定できるのです。

最後に、次の点を思い出す必要があります。すなわち、イエスに関する私たちの知識は、イエスの証人たちが信じるに値すること、また伝承自体が伝承を批判するという理由から、信用できるもの・信じるに値するものであるということです。それだけではなく、伝承が伝えることがらは歴史批判の分析に耐えうるものです。確かに、伝達された多くのことがらのうち、歴史家が援用する方法によって証明できるものは多くありません。しかし、これらの方法によって証明できないから実際には起こらなかったという結論を引き出すことはできません。伝えられたことがらの蓋然性(がいぜんせい)を示す資料を提供するに過ぎないのです。しかも、蓋然性は決定的なものではありません。蓋然性から見れば起こりえないと考えられる事柄が、歴史的に起こっているからです。福音書の資料が理性にかなっており、また証明可能なことがらとの一貫性があるという点、これこそ疑う余地なく真であると言えます。いずれにせよ、教会の中で生まれた福音書の信憑性を保証し、それをどう解釈すべきかを教えるのは、教会の伝承(聖伝)なのです。

2.東方の星とは何のことでしょうか。

東方の星については聖マタイが福音書の中で述べています。エルサレムで博士たちが尋(たず)ねます。「お生まれになったユダヤの王はどこにおられますか」(マタイ2,2)。聖マタイと聖ルカによる福音の最初の二章はイエスの幼年時代のいくつかの出来事を記しています。「幼年期の福音」と呼ばれる由縁(ゆえん)です。星は聖マタイの「幼年期の福音」に現れます。幼年時代を語る福音はいずれも他の福音書と多少異なる特徴を備えています。旧約聖書を呼び起こすことが多く、各々の出来事に深い意味が読み取れます。というわけで、幼年期の福音書の歴史性を、福音書に現われる他の出来事と同じように検討するわけにはいきません。また、同じ幼年期に関する記述であっても違いがあります。聖ルカの場合、幼年期は福音書の第一章に書かれてあり、聖マタイの場合は、テキスト全体の要約と言えます。博士たちに関する箇所では(マタイ2,1-12)、イスラエルに属していない異邦人が数人現れます。彼らは研究と人間的な知識(星)を通して、神の啓示を発見します。しかし、イスラエルの聖書の助けを得なければ、真理を十全に知ることができません。

福音書が書かれた頃は、重要な人物の誕生や重大な出来事が生じる時、それを告げる不思議な出来事が天に起こると信じられていました。異邦人の世界でも(スエトニオやキケロの著作参照)ユダヤ人の間でも(フラビオ・ジョセホ)同じでした。さらに、民数記の22章から24ではひとつの御告げを記しています。「ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏(しゃく)がイスラエルから立ち上がる」(民数記24,17)。この章句はメシア(救い主)に関する救いの御告げであると解釈されていました。このような点が星の印を適切に解釈するための背景になります。

近代の聖書解釈学では、当時の人々が特別な出来事と解釈した自然現象とは何であったかについて問いかけました。仮説は主に三つあります。1)すでに、12世紀、ケプラーは新しい星・超新星について書いています。それは非常に遠いところにある星で、爆発が起こり、その星の光は数週間持続するので地上からも見ることができる。2)彗星(すいせい)である。彗星は規則正しい軌道ではあるが楕円軌(だえんき)線(せん)に従って太陽の周りを運行する。最も遠い軌道は地球から見ることができないが、ある一定の期間近づいたときには観察できる。これはマタイが記述するしるしと一致するようです。しかし、地球で観察できる彗星の出現は聖書のいう星の時期と一致しません。3)木星と土星の出会い。ケプラーはこれについても注意を呼び起こしています。この現象は定期的に発生します。計算が正確であるとすれば、紀元後6~7年に起こったと考えられます。これは研究によってイエスの誕生のときであると言われています。

3.なぜ12月25日にイエスの誕生を祝うのですか

初代のキリスト信者は誕生日の祝いをしなかったようです(オリゲネス参照)。ディエス・ナタリス(dies natalis=誕生の日)、つまり永遠の祖国に入った日(帰天日)を、イエスが栄光に輝く受難によって死に打ち勝ってもたらせた救いにあずかる日として祝っていたのです(ポリカルポの殉教録参照)。ニサンの14/15日に当たるイエスの栄光(復活)は、正確に記憶していましたが、福音書が沈黙するイエスの誕生の日付は祝っていなかったのです。イエスの誕生日については三世紀に至るまで情報がありません。教父たちと教会著作者たちの最初の証言には食い違いが見られます。キリストの誕生を12月25日とする間接的な証言は、221年、アフリカの人セクスト・ジュリオによりものです。イエスの誕生を直接に証言するのは、354年のフィロカリノといわれる典礼暦で、「12月25日、ユダヤのベトレヘムでキリスト誕生」と書いてあります。4世紀になると、この日をキリストの誕生日とすることが西方教会の伝統となりますが、東方教会では1月6日であるとされていました。

かなり広く受け入れられていた説明によると、キリスト者たちが、274年以来、12月25日をイエスの誕生と定めたのは、ローマで、太陽が一年のうちで最も長い夜に打ち勝つ日を祝っていたからであるという意見です。この説明の根拠は、降誕祭の典礼と当時の教父たちが、イエス・キリストの誕生と聖書の「正義の光」(マラキア4,2)や「世の光」(ヨハネ1,4他)双方の間に、平行関係を確立させたことにあります。しかし、これを証明するのは難しい上に、当時のキリスト者が異邦人の祝日をキリスト教典礼暦に採用したと考えることは、特に迫害が終ったばかりの頃ですから、難しいと思われます。勿論、時が経つに連れてキリスト教の祝日が異教の祝いを吸収したと考えることはできます。

もう一つ、納得しやすい説明があります。それは、イエスの誕生日はイエスの託身(受肉)の日付からくるという考えです。受肉の日はまた、イエスの死去の日と関係があります。夏至と春分・秋分に関する作者不詳の書は次のように書いています。私たちの主は3月25日に懐胎された。その日は主の受難と懐胎の日である。つまりイエスは死去した日に懐胎された(B. ボッテ「降誕と公現の起源」)。東方教会の伝統によると、他の暦に基づいて、主の受難と受肉を1月6日に祝っていました。1月6日の降誕祭と一致するわけです。

受難と受肉の間の関係は古代並びに中世の考え方と一致しています。古代と中世においては、神の偉大な介入が互いに関連している全体としての宇宙の完全性に感嘆の目を向けていました。これはユダヤ教にも根を下ろした考えで、創造と救いがニサンの月に結びついていました。これと同じ考えが歴史を通してキリスト教芸術に反映されています。マリアの御告げの場面に、天から下ってくる幼子イエスを描いていたのです。というわけで、キリスト信者たちはキリストが実現された贖いをその懐胎に結び付けていました。そして、これが降誕の日を決めることになったというわけです。「決定的な要因になったのは、創造と十字架、創造とキリストの懐胎の間にある関係であった」(J.ラツインガー『典礼の精神』)。

4.マリアの処女性とはどんな意味ですか?

マリアが男性の関与無しに受胎したことは、聖マタイと聖ルカによる福音書の最初の2章にはっきりと書かれている。「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。』(マテオ1.20)」「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。』(ルカ1.34-35)」他方、イエスが十字架上から御母を聖ヨハネに委ねたことは、他に子どもがいなかったということを意味する。福音書でしばしば「イエスの兄弟」と言われることには、以下のような説明の可能性がある。つまり、ヘブライ語で「兄弟」という単語が近い親戚の意味で使われていたこと(創世記13,8など参照)、あるいは聖ヨゼフが以前に結婚していて子どもを持っていた可能性、あるいは新約で使われるような信者のグループの意味で用いられた可能性(使徒1.15)。教会は一貫してマリアの処女性を信じており、マリアを「終生処女」(教会憲章52)と呼んできた。つまり、伝統的に言われるように、出産前も出産中も出産後も処女であった。

イエスの処女懐胎は、人間の理解と能力を超える神の力の業として理解しなければならない。「神にできないことは何一つない。」(ルカ1.37)それは、異教の神話にあるような、神が男性の代わりをして女性と結ばれるというものとはまったく違う。イエスの処女懐胎においては、マリアの胎内で創造に似た神の業が行われたのである。これは信者でない者にとっては受け入れがたいことであり、ユダヤ人や異教徒たちの間でイエスの懐胎について、ローマ軍兵士パンテラス(Pantheras)によって懐胎したというような粗野な歴史が作り出された。実際には、この人物はキリスト教徒を愚弄するために作られた伝説に登場する架空の人物である。歴史学的、文献学的に、パンテラスという名前はギリシャ語で処女を意味するパルテノス(Parthénos)をもじったものである。東ローマ帝国の大部分でギリシャ語が広く使われていたため、彼らはキリスト教徒たちがイエスのことを処女の子(huiós parthénou)と話すのを聞いていた。キリスト教徒を愚弄するときに、イエスを「パンテラスの子」と呼ぶようになった。そのような歴史は、マリアの処女性を堅持し続けて来たことの証拠である。

イエスの処女懐胎は、イエスが本性上真の神の子であり人間の父を持たないこと、と同時に女から生まれた真の人間であることを示す(ガラチア4.4)。福音書の場面では、救いの到来のために人間の歴史における神の絶対的な主導権が示され、イエスの系図に示されるとおり歴史に入ってこられた。

聖霊によって、男性の協力なしに宿ったイエスは、新たな被造界を創始する新しいアダムとした方が理解しやすい(1コリント15.47、ヨハネ3.34)。その被造界に、キリストによって贖われた新しい人間が属する。マリアの処女性は、彼女の一点の曇りもない信仰、神の御旨への完全な依託の印でもある。その信仰によって、胎内におけるより先に心にキリストを宿したとさえ言われてきた。「キリストの体を胎内に宿したときよりも、信仰によってキリストを受けたときの方がより幸せである。」(聖アウグスチヌス)処女であり母であるマリアは、教会の表象であり、その最も完全な実現である。

5.聖ヨセフは2度結婚したのですか?

聖マタイによると、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」(マタイ1.18)結婚式を挙げる前であるが、ユダヤ人にとってそれは非常に強く真実な約束であるので、婚約した二人はすでに夫婦と呼ぶことができ、その解消には離縁状が必要であった。聖マタイの福音書によれば、マリアは聖霊によって身ごもったのだ(マタイ 1.20)というヨセフに対する天使のお告げの後、結婚し同居し始めたということになる。エジプトへの逃避とエジプトからの帰還、ナザレへの定住(マタイ 2.13-23)、12歳時の両親に伴われた神殿でのエピソードは、そのことを理解させる。聖ルカはさらに、マリアへのお告げの記述で、「ダビデ家のヨセフという人の許嫁であるおとめ」とマリアを紹介した。従って、これらの福音書によれば、聖ヨセフは聖母と結婚していたことになる。これが福音書に残された確かな歴史的伝統の情報である。

ここで、もしこれが聖ヨセフにとって二度目の結婚であったか、すでに年老いて男やもめであった聖ヨセフが聖マリアとの結婚に至らず、単に聖マリアをおとめとして世話をしていたに過ぎないとする説は、伝説の範疇に属するものであって、なんら歴史的に確たる根拠はない。

この伝説についての最初の言及は、2世紀の「ヤコブの偽福音書」の中に見出される。マリアは3歳から神殿に留まっており、12歳になった時司祭たちが世話をする誰かを捜したというのである。民のすべての男やもめを集めた。ヨセフの杖から鳩が一羽出てくるという不思議な印が起こり、聖母の守護者としてヨセフが任せられた。しかしながら、この伝説によればヨセフはマリアを妻として迎え入れなかったことになる。実際、天使が夢でヨセフに告げた時にマタイ1.20のように「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」とは言わず、「この乙女を恐れるな」(XIV,2)と言った。約6世紀にできたさらに新しい、「マタイによる偽福音書」と呼ばれる外典ではこの歴史が再構成され、マリアは聖ヨセフと結婚したと理解しているようである。「他の誰とも結婚してはならない」(VIII,4)と司祭はヨセフに言った。しかし、一般に聖ヨセフのことを聖母の守護者として描いている。一方、マタイによる偽福音書の一種の要約である「マリア誕生の書」や「大工ヨセフの歴史」にははっきりとヨセフはマリアと結婚したと書かれている(IV,4-5)。

従って、聖ヨセフが以前に結婚していたと認めるだけの歴史的データは存在しない。聖母と結婚したとき若い青年であり、一度だけ結婚したと考えるのが最も論理的である。

6.十二使徒たちは誰ですか?

イエスの生涯における最も確かな情報の一つは、12人の弟子からなるグループを作り、「十二使徒」と名付けたことである。このグループはイエスが個人的に呼んだ男たちであり、神の国設立という彼の使命に協力し、イエスの言葉、行い、復活の証人である。

新約聖書には、この12人のグループは不変ないし固定したグループとして登場する。その名前は以下の通り。「シモンにはペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、『雷の子ら』という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」(マルコ 3.16-19)他の福音書や使徒行録に出てくるリストにも、ほとんど違いはない。タダイがユダと呼ばれるが、それは重要ではない。つまり、同名の人物がいるため(シモン、ヤコブ)、父の名に由来する名や2番目の名前で区別しているのである。つまり、ユダ・タダイである。彼らの大多数の福音宣教について、使徒言行録に書かれていないという事実は意義深い。それは早期に散り散りになったことを示しているが、にもかかわらず使徒たちの名前についての言い伝えは非常に安定しているのである。

「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(マルコ 3.13-15)と聖マルコは言った。そうして、イエスのイニシアティブと十二使徒の役割を示した。つまり、彼らはイエスと共にいて、イエスと同じ権能で宣教するため遣わされた。他の福音史家-聖マタイ(10.1)と聖ルカ(6.12-13)-も同様の表現をしている。福音書の中で、彼らがどのようにイエスにお供し、イエスの使命に参与し、特別な教えを受け取ったかを見ることができる。福音史家たちは、使徒たちがしばしば主の言葉が理解できなかったことや試みの時に主を見捨てたことを隠さない。しかし、イエスが彼らに与えた新たな信頼も同時に示す。

選ばれたものの数が12であることは意味深長である。この数字はイスラエルの12部族を示しており(マタイ 19.28, ルカ 22.30など参照)、当時一般的だった他の数字ではない(衆議会議員数は71名、クムランの委員は15ないし16名、会堂での儀式に必要な人数は10名であった)。ここから、イエスの望んでいたことは土地、儀式、民族に基盤をもつイスラエルの再興ではなく(使徒言行録 1.6)、地上に神の国を創設することであったことが明らかとなる。聖霊降臨の前にマティアがイスカリオテのユダの代わりとなり、12人としたこともそのことを伺わせる。

7.幼児虐殺とは何ですか?それは歴史的事実ですか?

幼児虐殺は、占星術博士の星に関するエピソードの中で、聖マタイ福音書の幼年期の部分に書かれている。博士たちはユダヤ人の王を訪ねてきた(マタイ2.1)。ユダヤ人の王であったヘロデは、自分を脅かしうる者が誰なのかを調べるために策略を練り、帰りに立ち寄り知らせるよう博士たちに頼んだ。博士たちが他の道を通って帰ったことを知ると、「大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。(マタイ2.16)」この場面はいくつかの旧約のエピソードを思い出させる。出エジプト記によれば、ファラオは生まれたばかりのヘブライ人の子を皆殺しにするよう命じたが、モーゼだけは助かり、後にこのモーゼによって民は解放された(出エジプト1.8-2.10)。聖マタイはまた、幼児の殉教によってエレミヤの預言が実現したことを語る(エレミヤ31.15)。イスラエルの民は追放されたが、新たな出エジプトとして主は新たな地へ導き、新しい契約を約束した(エレミヤ31.31)。従ってこの場面の意味は明白である。この世の力がどれほどであろうとも、人間を救う神の計画に逆らうことはできないということである。

ここで、聖マタイの記述以外に情報のない、幼児虐殺の歴史性について調べなければならない。現代の歴史研究においては、”testis unus testis nullus” 一つの証言は役に立たないといわれる。しかしながら、人口の少ない小さな村であったベツレヘムでの幼児虐殺はそれほど大量ではなく、記録に残らなかったとした方が考えやすい。また、その残虐性がヘロデについてフラビオ・ヨセフォの語る野蛮さと一致していることは確かである。義兄弟アリストブロが人気を博したとき絞め殺し(Antiguedades Judías, 15&54-56)、義父ヒルカノII世(15&174-178)、他の義兄弟であるコストバル(15&247-251)、妻のマリアンヌ(15&222-239)を暗殺した。晩年には、息子のアレクサンダーとアリストブロを暗殺し(16&130-135)、自身の死の5日前にもう一人の息子アンティパトロを殺した(17&145)。最後には、王国の何人かの有力者を処刑し、好むと好まざるとによらず、ヘロデの死を泣き悲しむようにした。(17&173-175)

8.イエスが生まれたのはベツレヘムですか、それともナザレですか?

聖マタイは「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」(マタイ2.1)と明記した。聖ルカも同様である(ルカ2.4、15)。第四福音書は間接的な言及をしている。イエスの正体について論争が起こった。「群衆の中には、『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者や、『この人はメシアだ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。』(ヨハネ7.40-42)」第四福音記者はある種の皮肉を利用している。彼も読者もイエスがメシアであり、ベツレヘムで生まれたことを知っている。イエスに反対するものたちはイエスがメシアでないことを証明するために、メシアであるためにはベツレヘムで生まれなくてはならないが、イエスの場合はナザレで生まれたことを知っている(と思っている)。これは第四福音書でよく使われる書き方である(ヨハネ3.12、6.42、9.40-41)。例えば、サマリアの女は質問した。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。(ヨハネ4.12)」ヨハネの言葉を聞くものはイエスがメシア、神の子で、ヤコブより偉いことを知っており、この女の質問はその優越性の肯定となる。それ故、この福音記者は反対者の肯定までも利用してイエスがメシアであることを証明する。

以上が、1900年以上にわたって、信者と学者の間で一致していた見解であった。しかし、前世紀に何人かの学者が以下のように言った。全新約聖書にわたってイエスが『ナザレ人』と見なされており、ベツレヘムが誕生地であるとの言及は、ダビデの子孫がベツレヘムで生まれるという、当時来るべきメシアが備えるべきであると当時見なされていた特徴の一つを、聖マタイと聖ルカがイエスに当てはめた作り事である、と。一つ確かなことは、そのような議論によっては何も証明されないということだ。1世紀には、イエスにおいて実現しなかった、来るべきメシアについての話が沢山出ていた。我々が知るところでは、ベツレヘム誕生の件は最も証明が試みられたものの一つではなかったようである。むしろ、逆に考えるべきである。というのは、ナザレ人であるイエス(つまりそこで育ったということ)はベツレヘムで生まれたが、福音記者が旧約聖書の中に見出し、メシアとしての特徴が彼において実現した。伝統的な証言は皆、福音書のデータを裏付ける。100年頃パレスティナで生まれた聖ユスティノは、約50年後にイエスはベツレヘム近くの洞窟で生まれたと述べた(Diálogo 78)。オリゲネスも同じ証言をしている(Contra Celso I, 51)。偽福音書も同じことを述べている(偽マタイ13; 偽ヤコブ17ss; Evangelio de infancia, 2-4)。

まとめると、福音記者の既述や伝統的に言われてきたことに反対する十分な論拠はないということが、今日の研究者共通の意見である。イエスは、ヘロデ王の時代にベツレヘムで生まれた。

9.イエスは独身だったのですか、それとも結婚していたのですか、あるいは男やもめだったのですか?

福音記者が書き残したデータによれば、イエスはナザレで大工の仕事に従事して後(マルコ6.3)、30歳の時に公の職務を始めた(ルカ3.23)。公生活の間、イエスに従う女性や(ルカ8.2-3)、親しく接する女性がいた(ルカ10.38-40)。イエスが独身であったか、結婚していたか、男やもめであったかについて、まったく何も書かれていない。しかし、福音記者は、彼の家族、母、“兄弟姉妹”について言及するものの、“妻”について一度も触れたことはない。この沈黙は多くを語る。イエスは“ヨセフの子”として知られており(ルカ4.22、ヨハネ6.42)、ナザレの村人が彼の教えに驚いた時、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(マルコ6.3)と感嘆した。イエスが妻帯者であったと思わせるような記述はどこにもない。長い伝統の中でイエスの結婚の可能性について語られたことは決してなかった。そうしなかったのは、イエスの結婚はイエスを中傷すると考えたからでも(イエスは結婚の尊厳を回復した、ルカ19.1-12)、イエスの神性の信仰と両立しないと考えたからでもなく、単に歴史的事実に従っただけである。教会の信仰を危険にさらす恐れのあることを黙っておきたいのであれば、なぜ罪のゆるしのための洗礼を授けていた洗者ヨハネから洗礼を受けたことを伝えたのであろうか。初代教会がイエスの結婚について沈黙したかったのなら、なぜイエスと交際のあった人々のなかで、特定の女性の存在について沈黙しなかったのだろうか。

にもかかわらず、イエスが結婚していたと主張するいくつかの説が広まってきている。基本的にイエスが結婚していた証拠として、1世紀のラビたちの実践と教えを提示する(マグダラのマリアと結婚していたという推測については、「イエスはマグダラのマリアとどのような関係を持っていたのですか?」を参照)。ラビであるイエスが独身でいることは、当時のラビたちにとって考えられないことであり、結婚していたに違いない(ラビ・シメオン・ベン・アザイのような例外はある。彼は独身でいることをとがめられた時に言った、「私の魂はトラに恋している。他の人たちが子孫を残せばよい。」Talmud de Babilonia, b, Yeb. 63b)。それゆえ、イエスは他の敬虔なユダヤ人のように20歳ごろ結婚し、使命を果たすために妻と子どもを見捨てたのだろうと主張するものがいる。

それらの反論に対する答えは以下の通り。

1) 1世紀のユダヤ教に独身生活があったというデータがある。フラビオ・ヨセフォ(Guerra Judía 2.8.2&120-21; Antiguedades judías 18.1.5&18-20)やフィロン(エウセビオによって残された一場面で、Prep. evang. 8,11.14)や老プリニオ(Historia natural 5.73,1-3)はエッセネ派が独身生活をしていたと伝えているし、クムランの中に独身生活をする者がいたことを我々は知っている。フィロン(De vita contemplativa)は “テラペウタ” とよばれるエジプトの禁欲主義のグループが独身生活をしていたと述べている。さらに、イスラエルの伝統では、エレミアのように、何人かの有名な人物が独身であった。ラビの伝統によれば、モーゼも神との親しい交わりを保つために、禁欲生活を送ったとされる。洗者ヨハネも結婚しなかった。従って、独身生活は、一般的ではないものの、前代未聞というものでもなかった。

2) 仮にイスラエルにおいて誰も独身生活を送ったことがなかったとしても、それでイエスが結婚していたと推定すべきではない。既述したようにデータはイエスが独身を保ちたかったことを示しており、そうした方が都合がよい多くの理由がある。それはまさに、独身であることが当時のユダヤ教との関係におけるイエスの独自性を強調し、彼の使命に合致したものであるからである。結婚の価値を落とすことも、従うものに独身を強要することもなく、神の国の理想、彼が具現する人間と神への愛はすべてを超越している。この愛をよりよく表すために、イエスは独身を望んだのである。

10.イエスはどこでどのようにして生まれたのですか?

福音記者のうちマタイとルカが、イエスがベツレヘムで生まれたと書いている(「イエスが生まれたのはベツレヘムですか、それともナザレですか?」を参照)。マタイは場所を特定しなかったが、ルカは、子どもを産んだ後マリアは「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(ルカ2.7)と述べた。「飼い葉桶」という言葉はイエスが生まれた場所に家畜がいたことを示す。ルカはまた、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子が羊飼いたちにとって、生まれた救い主の印であるとのべている。「泊まる場所」を表すために使われたギリシャ語はkatálymaである。それは応接室として使うこともできる広い部屋を表す単語である。新約聖書ではこのほかに、イエスが弟子たちと最後の晩餐を祝うために使った高間を表すために2回使われている(ルカ22.11、マルコ14.14)。おそらく、福音記者はこの言葉によって、出来事の秘密を守れないような場所であったということを示したかったのだろう。ユスティノ(トリフォンとの対話 78)は洞窟で生まれたと言い、オリゲネス(Contra Celso 1,51)や偽福音書も同様に言っている(偽ヤコブ20、Evangelio árabe de la infancia 2、偽マタイ13)。

ごく初期から、教会の聖伝はイエス誕生の超自然性を伝えて来た。アンティオキアの聖イグナチオは西暦100年頃、「この世の王子(悪魔)にはマリアの処女性も、その出産も、主の御死去も隠された。3つの驚くべき神秘は神の沈黙のうちになされた。」(Ad Ephesios 19.1)2世紀の終わり頃、聖イレネオは、マリアの出産は無痛であったとのべ(Demonstratio Evangelica 54)と述べ、アレクサンドリアのクレメンスは2つの偽福音書に則って、イエスの誕生は処女性を保ったと述べた(Stromata 7.16)。4世紀の聖グレゴリオ・タウマトゥルゴの作とされる文書の中にははっきりと述べている。「キリストが生まれる時、無原罪の胎と処女性は保たれた。それは、前代未聞のこの出産が私たちにとって偉大な神秘の印となるためであった。」(Pitra, “Analecta Sacra”, IV, 391)最も古い偽福音書は、突拍子さはあるものの、上記の証言と一致した伝統を残している。ソロモンの頌歌(Oda 19)、イザヤの昇天(cap 13)、ヤコブの偽福音書(cap. 20-21)においては、イエスの誕生は奇跡的な様相を帯びている。

これらすべての証言は、教会によって承認されてきた信仰のある伝統を反映しているが、それは、マリアが出産前も、出産中も出産後も処女であったという信仰である。「教会は、処女である母への信仰を深めるにつれ、マリアは人となられた神の御子を産んだ時も含めて(DS=カトリック教会公文書資料集 291; 294; 442; 503; 571; 1880)、真に終生の処女性を保たれたと公言するに至りました(DS 427参照)。事実、キリストの誕生は、『母の完全な処女性を傷つけることなくかえって聖化しました。』(教会憲章57)教会の典礼は、マリアを終生の処女 “Aeiparthenos”としてたたえます(教会憲章52)。」(カトリック教会のカテキズム499)

11. 歴史におけるイエス・キリストの研究の現状

歴史学の近代的な研究手法が19世紀以降、福音書の研究に用いられてから、イエス・キリストの歴史学的研究は幾つかの時代を推移した。当初は合理主義による偏見、また20世紀には酷評的な研究手法を経た現代では、イエス・キリストに関する研究はより肯定的で寛容と言える。前世紀中頃、懐疑主義にみまわれたイエス・キリストの研究はその懐疑主義を脱したと言える。(Que sabemos realmente sobre Jesus?参照)

現代では、イエス・キリストが実在した歴史学的及び文学的背景についてより多くの知見が得られている。これは、福音書関連文学、すなわちイエス・キリストと同時期のユダヤ文学及び福音記者(聖書の解説書物、聖書のアラム語訳、クムラン書物、ユダヤ法律関連文学)の研究により、福音書の記載及びユダヤ時代におけるイエス・キリストという人物についてより詳細に知り、理解を深めることが可能となったからである。

他方で、古代ギリシャ・ローマに関する研究からは、古代ギリシャ思想がイエス・キリストのガリラヤ地方へ及ぼした影響、すなわちガリラヤ地方と古代ギリシャ文化の接点についてより深く知ることができる。また、恐らく正典福音書より後に記載されたであろう外典福音書の内容、並びに2世紀の他のキリスト教及びユダヤ教書物は、イエス・キリストの時代の慣習を分析し、福音書の記載をより適切な背景に位置づけることを可能とした。更に、最近の考古学的発掘も、歴史におけるイエス・キリストの研究に貢献している。特にガリラヤ地方における発掘は、古代ギリシャ文化を承継している1世紀のパレスチナ地方の文化を明示するうえで興味深い。最後に、これらの史料をより深く理解するために、歴史学並びに聖書注釈に関する近代的な研究手法が適応され、従前の研究手法の限界や厳格さを乗り越えている。

以上の研究により、イエス・キリストについての歴史学的な知見は確固なものであり、福音書は信仰の対象として相応しい。キリスト教に対して中立的な立場をとる歴史学者であっても、福音書を通してイエス・キリストの人柄や振る舞いとその使命について知ることができる。

12. 償いの習慣に対するイエス・キリストの姿勢

他の宗教と同様、償いに関する習慣はイスラエルの民に深く根付いていた。彼らは生活を改め、神への回心を望む証として、祈り、献金、断食、灰の儀式、亜麻布の被服などの多くの習慣を執り行っていた。

歴史学者や聖書の研究家が一致して唱える通り、イエス・キリストの教えは「神の御国」を中心とするものである。また、イエス・キリストはその「神の御国」の実現に不可欠なものとして回心が必要と教えておられる。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1章、15節)。イエスが言う償い、すなわち回心とは深い心の回心を意味する。しかし同時に、その心の回心に応じて生活をも回心し、償いと言えるような実りをもたらすものでなければならない。つまり償いは、行いや振る舞いに表れて初めて意味のある真の償いと言えよう。実際、イエスは償いに従じたその生涯において、「神の御国」と償いは切り離すことができないことを示してくれた。イエスは断食し(マタイ4章、2節)、快適な場所での休憩を捧げ(マタイ8章、20節)、祈りに夜を徹し(ルカ6章、12節)、そして何より十字架で自らの命を捧げた。

イエスの初代の弟子達はその教えを受け、イエスについていくということは彼の通り生きるということと悟った。この点において聖ルカは、キリスト者はキリストが生きた通り、日々の十字架を背負って生活する必要があると最も強調している福音記者である。すなわち、イエスが弟子達に示した通りである。「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」(ルカ9章、23節)。この様に、初代キリスト者は後も神殿で祈りを捧げ(使徒行伝3章、1節)、断食などの償いを続けた(使徒行伝13章2-3節)。また、断食の際はイエスの教えに従った「また断食をする時には、偽善者がするように陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたが断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知られないで、隠れたところにおいでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイ6章、16-18節)。

更に、キリストは十字架での死により人類を罪から救われた。このキリストの十字架の死の値打ちから、初代キリスト者は、償い(特に断食、祈り及び献金)や苦しみを捧げることは回心のみならず、キリストの十字架での犠牲にともに参加し、人類の救いに貢献できる方法と認識した。これは、聖パウロの記述「キリストの体となる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、私の肉体をもって補っている」(コロサイ人への手紙1章、24節)に記されている通りであり、現代の教会において行われている通りである。

13. 福音記者とはどのような人物だったか

福音書の重要なのは、十二使徒が述べ伝えた内容をわれわれに伝えてくれ、また十二使徒若しくはこれらの弟子によって書き記されたことである(Cfr dei Verbum, n.19)。これは、福音記者はマタイ、ヨハネ、ルカ及びマルコであるという、聖伝によって伝えられた通りである。すなわちこれら四人のうち、最初の二人は十二使徒(マタイ10章、2-4節)であり、他の二人はそれぞれ聖パウロ及び聖ペトロの弟子とされている。近代の研究では、これらの聖伝を批評的に分析され、マルコ及びルカをそれぞれの福音の作者とすることに支障は生じていない。しかしマタイ及びヨハネをそれぞれの福音の作者とすることの妥当性についてより厳格な姿勢を示している。この場合、福音の作者とは由来する使徒の伝承を示すのであり、作者自身が福音を書き記したのではないとされている。

つまり肝心なのは福音を記した具体的人物ではなく、福音の裏づけとなる使徒的な権威である。2世紀半ば、聖Justinoは典礼会議で朗読されていた「使徒又は福音の記録」(Apologia, 1,66,3)について述べている。これらの記録はその使徒的な由来、そして公な場で読まれるよう集められていたことを示している。後に同じ2世紀に、使徒的由来の福音は4つでありそれ以外には存在しないと他の著者らは唱える。すなわちOrigenesは以下のように述べている「教会には4つの福音があり、他には異端による福音も多数存在する。中にはエジプト人によるもの、または十二使徒によるもの。またBasilidesは大胆にも自ら福音を書き記し、自らの名のものとした(...)。トマやマティアによる福音を始め、他にも多数存在している」(Hom. 1 in Luc., PG 13, 1802)。似たような証言は聖Ireneoの著作でも見られある箇所ではこう主張する「万物を支え、ケルビムを元に座しておられる、万物の創造主である神の御言葉(キリスト)は、一旦御自身を人類に示されたあとは、4つの形を有する福音をわれわれに残してくださった。この福音は4つの形を有しているにもかかわらず一つの聖霊によって支えられている」(Contra las herejias, 3,2,8-9)。

「4つの形を有した」という表現はある重要な事柄を示す。すなわち、福音は唯一でありながら4つの形を有していることである。この概念は福音書の題にも示されている。福音書には当時の他の著作のように具体的な作者は記されていなく、「~による福音」のように表現されている。これにより、福音書はキリストの唯一の福音であるが使徒らに由来する4つの形で記されていることが言える。これは同時に、複数のものが唯一のものの中に見い出されることを示してくれる。

19.福音書の正典と外典は何ですか? それはどれでいくつありますか?

正典の福音書とは使徒の語ったことを真に伝え、神の霊感を受けたものとして教会が認めたものです。それらは4書で、マタイ、マルコ、ルカそしてヨハネの4書のみです。これは、2世紀の終わりにリヨンの聖イレーネが明確に提唱し、教会も常に同じ立場を採りトレントの公会議(1545-1563)で聖書の正典を決定するにあたり信仰の教義として提唱しました。

この福音書の著作は使徒たちがイエスと行動をともにして見聞きしたことや、イエスが死から復活した後に出現したことに根ざしています。ただちに同じ使徒たちは、主の命により主に関する良い知らせ〈福音〉を説き、そしてパレスチナやそれ以外の土地〈アンティオキァ、小アジアの都市、ローマ等〉に行きキリスト教の共同体をつくりました。共同体の中で、伝承はイエスに関する物語や教えという形をとり、それは常に証人であった使徒たちの指導のもとに行われました。そのうちに、伝承は主の伝記を語るかたちでまとめられ文書化されました。このように、福音書は共同体内部での使用を目的として生まれました。最初にできたのは現在のものよりも簡略な、ヘブライ語もしくはアラム語によるマルコの福音書か多分マタイの福音書の一部と思われます。他の3福音書もこれと同じかたちをとりました。この編纂に際し、それぞれの福音書著者は伝えるべき多くの事柄の中からいくつかのものを選び、他のものと統合し、身近な読者の条件を考慮して仕上げました。4福音書は4人の使徒や、聖ペトロのマルコ、聖パウロのルカといった直接の弟子たちから文書で受け継がれ伝えられた事実を反映しているという使徒による保証がありました。

福音書の外典は使徒の正しい伝承として教会が受け入れていないものだが、通常使徒の誰かの名前の下に書かれたものです。それは早い時期に広がり始め、2世紀の後半にはすでに引用されていました。しかしながら、認知された4福音書のような使徒による保証はなく、加えてその多くは使徒による教えとは異なった考え方が含まれていました。”外典“とはまず“秘密”を意味し、それはそれを発議した特別の団体のために書かれ彼らにより大切に維持されてきました、そして後に偽りのものおよび異端を意味するようになりました。時間がたつに従い、これら外典の数が非常に増え正典にはないイエスの生活の詳細が書かれたものもの(たとえば、イエスの幼少時の外典)や教会とは異なった教えをする使徒のの名前を冠したもの(たとえば、トマスの福音書〉などが出てきました。アレクサンドリアのOrigenesは”教会には4正典、異端のもの、その他多くのものがありました”と書いています〈西暦245年〉。

教父たちの情報によるもの、キリスト教徒の信仰心により維持されてきたもの、そしてパピルス他により確かな裏付けのあるもの等を入れると、”外典の福音書”は50を少し超えた数あると知られている。

20.正典と外典の福音書の違いは何ですか?

正典の福音書が神の霊感によるものであることは確認できませんが、確認できる違いの第一は福音書の外見上のものです。正典は聖書ですが、外典は聖書ではありません。正典は使徒たちのすぐ後の世代以降東方および西方の教会により使徒たちの真の伝承として受け入れられてきたもので、外典は共同体のどこかで時たま用いられたが教会全体で認められまでには至らなかったものです。この選定にあたり重要な根拠の一つは、歴史学上確認できることとして、正典は広い意味合いで使徒の時代に書かれたものです。それは使徒たちおよびその直接の弟子たちが生きた時代です。次の世代のキリスト教の著者たちが引用する事柄はこの時代に生まれ、西暦140年ごろに正典(タシアノ)用に4福音書の資料が集められ整理の上編集されました。反対に、外典は後の時代の2世紀の終わりごろに初めて言及されました。一方、福音書と同様の文献としてで見つかっているパピルスは、あるものは2世紀の中ごろのもですが、断片的で次の世代に注意深く伝える程重要なものとは見なされませんでした。

保存されてきたものとか最近発見された外典について、その内容と同様に形式は正典とは著しい違いがあることを述べなければなりません。初期の教父の時代や中世から長い間保存されてきた外典は伝説的な物語で多くの作り話があります。正典では語られていなかったり、簡潔な形では示されていないあの瞬間に関して念入りに語ることによって大衆の信仰心を満たすようになりました。外典は総じて教会の教義に沿っており、聖ザカリアと聖アンナの処女(マリアの生誕)の誕生に関する物語や、助産婦がマリアの処女性を確認したもの(ヤコブの原福音書)、神の子イエスが引き起こした奇跡(偽トマスの福音書)に関するもの等があります。非常に異なっているのはナグ・ハマディ(エジプト)に由来する外典で、これはグノーシス派の異端の性格をもっています。これらには、イエスの秘密という形式をとったもの(トマスのコプト語の福音書)とか、物質的な現世の起源を説明した復活したイエスの啓示(ヨハネの外典)、霊魂の昇天(マリア〈マグダラ〉の福音書)や、後の説教や公教要理などから拾った考えを多く取り集めたもの(フィリポの福音書)等があります。外典の中にはかなり古い、おそらく2世紀、のものもあるが、正典との違いは明々白々です。

21.福音書の外典は何を伝えていますか?

2世紀以降の教会の中で大量に作られた福音書の外典には本質的に3種類あります。その1は、パピルスに書かれた部分的に残っているものです。その2は、正典に極めて類似のもので、完全な形で残っておりイエスや聖母マリアに関することを信仰心をもって書かれたものです。もうひとつは、使徒の名前を冠しているが教会が真に使徒の伝承と考えるものとは無関係で異なった教義を有するものです。

上述の1番目のものは数が少なく目新しい事柄はほとんどありません。多分これは内容についてあまり知られていなためと思われます。これにあたるのは、キリストの受難について語っている「ペトロの福音書」の部分的なものです。

2番目のもので、最も古いのは「ヤコブの原福音書」で、そこでは聖母マリアの3歳の時からの神殿の中に住んでいて12歳になった時、当時男やもめであった聖ヨセフが彼女の世話係として選ばれたと語っています。神殿の祭司たちはすべての男やもめを集め、ヨセフの杖から鳩が出現した奇跡によりヨセフが選ばれました。同じ物語を取り上げている、後期の外典である「偽マタイ」によるとヨセフの杖から奇跡的に花が咲いたと語られています。その外典では、さらに聖ヨセフが聖母マリアと一緒にベツレヘムに行ったときにイエスが誕生したと語っています。また、大祭司はその出産に際しマリアの処女性を確認することができる助産婦を探したと語っています。同様の種類の他の外典である「マリアの生誕」では聖母マリアは年老いたザカリアとアンナから生まれたことが語られています。「偽トマス」では幼少のイエスと幼少のイエスが引き起こした奇跡について語っています。聖ヨセフの死は「大工ヨセフの物語」の主テーマとなっています。初期のアラブの外典では、そしてその後も東方の三博士に焦点が当てられており、エチオピアの外典ではその後非常に有名になったその三博士の名前も含まれています。他の外典、たとえば「安息の書」や「偽メリトン」で好まれた主題は聖母マリアの死と被昇天で、使徒たちに囲まれて死にそして主がその体を天国まで運んだと語られています。これらの全ての信心深い伝説は中世に大量に広まり多くの芸術家のインスピレーションを掻きたてました。

もう一つの外典のタイプは異端の教義を提起するものです。教父たちはそれらの外典を論駁するために、しばしばマルキオン、バシレイデースまたはウァレンティノス等と構成する異端者の名前で呼んだり、またはヘブライとかエジプト等向けられた対象者の名前で呼びました。別のところで、教父たちはその異端者たちが教義にヤコブやトマスといった幾人かの使徒の名前を好んで冠したことを非難しました。教父たちの情報は、1945年にナグ・ハマディ(エジプト)で約40のグノーシス派の文献が発見されたことにより確認されました。通常これらの外典は確かな根拠のないイエスの秘密の啓示と名乗るものを提示しています。彼らは神である創造主は下位にある邪悪な神の一つであると考えており、人の救済は自分がどこの神から来たかその起源を知ることにより初めて得られるとしています。

22.グノーシス主義とは何ですか?

「グノーシス主義」の名前はギリシャ語の知識を意味する「グノーシス」に語源があります。従って、グノーシス主義者とは特別な知識を有しそれに従って生きている人を指します。よって、専門用語の「グノーシス」には軽蔑的な意味合いはありません。アレキサンドリアのクレメンテや聖エレナイオス等の何人かの教父たちはグノーシスを信仰によりイエス・キリストの知識を得たものという意味合いで語っています「真のグノーシスとは使徒たちによる教義であると聖エレナイオスは書いています」(AdvHaerⅣ33)。

専門用語の「グノーシス主義」が軽蔑的な意味合いを有するようになったのは、西暦2世紀から4世紀の間に、ある種の異端者が急増し同じ教父たちが彼らをそのように呼んだからです。最初にそのように命名したのは聖エレナイオスで、サマリアのシモンの異端(使徒言行録8,9-24)にその起源を見つけ、その追随者たちがアレキサンドリア、小アジアやローマで「あたかも木の子が地中から現れるごとく大量のグノーシス主義者」(AdvHaerⅣ33)が広がっていると語っています。聖エレナイオスが引きつづき語るところによると、このグノーシス主義者から聖エレナイオスが直接争っているウアレンティノス派が由来するとのことです。また、その多さや異端の多様さを次のごとく語り説明しています「その共犯者の多くは、実際はすべてが、指導者になりたがっている。今まで信奉していた異端派から立ち去り他の教義に基づく教えを企て、そしてその教義に基づき更に新たな教義をつくり、さらには全ては自分たちが正統であり実際お互いに相容れないような教義を自ら見出したと主張しています」(AdvHaer.1.28.1)。

あの異端者たち(特にローマの聖ヒッポリュトスとサラミスの聖エピファニオス)と争わねばならなかった聖エレナイオスや他の教父たちが伝えるところによると、「グノーシス主義」と呼ばれるものの中に非常に多くの分派があり指導者がいたのでこの総称的な形容詞でまとめられました。この中には次のものがあります、分派としてシモン派nicolaitas,オフィス派,ナース派セツ派,peratas,バシリデース派,carpocratianos,ウァレンティノス派,marcosianos等があり指導者としてはシモン,ケリントス,バシレイデース,カルポクラテース,ケルドーン,ウアレンティノス,Tolomeo,テオドトス,ヘラクレオン,バルダイサン等です。1945年にナグ・ハマディ(高エジプト)で発見された「グノーシス主義」の異端書は、約40あるが皆同じような印象を受けます。すなわち、それぞれは独自の異端教義の傾向があります。

これらの多様な中で最も知られているのはウヮレンティノス派のグノーシス主義で、同時に最も大きな影響を及ぼしました。彼らは教会の中で「身を隠した猛獣」の役割を演じたと聖エレナイオスは語っています。かれらは教会と同じ聖書を持っていたが、反対の意味に解釈しました。彼らによると、真の神は旧約の創造主ではありません。天上の世界(eones)の存在の中で種々のキリストを区別し、救済は物質の中に閉じ込められた神の火花のようなも知識を通して得られると考え、キリストの贖罪はこの知識を呼び覚ますことからなり、霊的〈pneeumatikol〉な人間のみが救済されることになっていると考えています。エリート的な性格と創造された世界に対する軽視は、特にその異端者の考え方と「グノーシス主義」の最も代表的なものを形成しています。

23.ローマとユダヤの情報源からはイエスについて何が得られますか?

文献の中で最初にイエスについて言及があるのはおそらくキリスト教の文献で、Ⅰ世紀後半から2世紀前半に生きたギリシャやローマの歴史家の文献の中に見出せます、これはキリストの出来事からかなり近い時期です。

キリストが言及されている最も古い文献は、暗示的ではあるがマーラバー・セラピオーンという西暦73年ごろのシリアのサモサタ出身のストア派哲学者により書かれたものです。そこにおいてイエスをユダヤ人の「賢明な王」と述べ、「新たな律法」を広めたと語っています。新たな律法とは多分山上の説教(マタイ5,21-48)のアンチテーゼのことであり、イエスを死なせたことはユダヤ人にとって無駄なことであったと語っています。

最も古くかつ有名なイエスの明確な言及はⅠ世紀終わりごろの歴史家のフラウィウス・ヨセフス(ユダヤ古代誌XVlll,63-64)によるもので、これはまた「フラウィウス証言」として知られています。全てギリシャ語の手書きで残っているヨセフスの著作はイエスはメシアではないかと暗示しています。このことにより、多くの作者はこの著作は中世の複写家によって加筆されたとの見解をとっています。今日、学者たちはヨセフスの原文は10世紀にヒエラポリスの司教のアガぺが引用しているアラビア語で残っているものにより近いのではないかと考えており、そこには加筆したと思われるところがありません。それは次のように語っています「その頃、イエスという賢明な人が善徳を行い高潔さで知られていました。イエスには弟子として多くのユダヤ人とその他の市民がいました。かれはピラトにより十字架上の磔刑に処されて死にました。しかしながら、その弟子たちはイエスの死後も弟子であることをやめず、イエスは十字架につるされて3日後に現われて生きており、イエスは預言者たちが素晴らしいことを話していたそのメシアに違いないと語っています。

2世紀のローマの著者たちの作品の中で(小プリニウス、書簡集XV44、スエトニウス クラウディウスの生涯25,4)イエスの人物およびその追随者についていくつかの言及がなされています。

ユダヤの情報源からは、特にタルムードのなかで、イエスおよびイエスについて語っているある種の事柄について種々の言及があります。このある種の事柄はキリスト教徒による操作の疑いのない情報源から歴史的詳細に実証可能なものです。ユダヤの学者の一人であるジョセフ・クラウスナーはイエスに関してタルムードが述べるところから導き出せる結論を次のように要約しています。「信頼できる言述によると彼の名前はナザレのヨシュアで、”魔術を行い“(すなわち、当時はやりの奇跡を起こし)、人々を扇動しそして悪路をイスラエルに導きました。律法学者の言葉を愚弄しファリサイ派の律法書に対し同様の見解を述べました。5人の弟子を連れており、律法を廃止したりそれに付け加えるために来たのではないと語りました。そして過越祭の前夜に偽りの指導者で扇動者として十字架につるされました(土曜日に下ろされました)。彼の弟子たちは彼の名のもとに病人の治療にあたりました」。〈ジョセフ・クラウスナー、ナザレのイエスP44〉つまるところ、歴史的な視点に立つと正確さが要求されようが、これで全てではないが少なくもない、これらの情報源から推定できることは十分に明示的であるということです。これらの情報をローマの著者のものと対比させると、イエスが存在してその生涯に関する重要な情報が含まれていることを歴史的な確かさで確認することが可能です。

24.ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、熱心党とは誰ですか?

西暦Ⅰ世紀のパレスチナにおいて、ユダヤ住民の間で、イスラエルの宗教のよりどころとその宗教生活の仕方に対する理解の多様性から種々のグループが生まれました。

イエスの時代多くの住民から最も高く評価されていたのはファリサイ派でした。その名前はヘブライ語でパルーシームで「分離者」を意味します。彼らの大きな関心は神殿の内外での清浄習慣に関する律法をいかに守るかという問題に向けられました。祭司の清浄習慣は信仰のために確立されたもので、ファリサイ派の人々の日常生活のあらゆる行動の中での生活の理想を示すために伝えられ、彼らの生活は習慣化され神聖なものとなっていました。文書化された律法(トーラーや五書)のほかに、一連の伝承や律法の規定を実践するための方法を要約したものがあります。これらの重要性が徐々に高まり、これらもまた神からの口頭のトーラーと受け入れられるようになりました。彼らの信仰によると、これらの口頭のトーラーも文書のトーラーと共にシナイで神よりモーゼに伝えられ、従って両方は結びついて同等の効力を持ちました。

ファリサイ派の一部の人々にとって、政治的な大きさはその重要さを位置づけする時には決定的な役割を果たし、国家の独立に向けての目的と結び付いており、従っていかなる外部的な力も住民の中における神の支配力に影響を与えてはならないものです。この様な一派は熱心党の名前で知られており、これは多分自分たち自らを名付けたもので、神と律法の順守に対する熱意を述べています。彼らは神より与えられた救済を考えていましたが、この救済をもたらすためには神は人間の協力をあてにしていることを確信していました。そのような協力は最初に純粋に宗教的な面で、そして律法の厳密な順守による熱意によって動きました。後の西暦50年代以降は、軍事面でも示す必要があると考えるようになりました。軍事面では勝利するためには必要な暴力の使用を拒否することはできないが、戦闘中に命を失う恐怖はありませんでした。それは神の名における聖者になるための殉教でした。

サドカイ派は、上流社会の人々で、祭司、教育のある、金持ちそして貴族の家族に属する人々でした。彼らの内の、一部はローマ帝国での職業が最初は大祭司であったものいましたが、大祭司はその当時ローマ帝国権力に対してユダヤの代表者でした。彼らはトーラーをファリサイ派のような多くの詭弁的な問題に陥ることなく非常にまじめに解釈し、従ってファリサイ派が口頭のトーラーと考えるものを軽視しました。ファリサイ派との違いは、サドカイ派は死後の世界を信じず、終末論の死後の世界に対する信仰もありませんでした。サドカイ派は人気がなくファリサイ派が享受した大衆の支持がありませんでしたが、宗教と政治の力があり、従って非常に影響力がありました。

近年最も研究されているグループはエッセネ派です。フラウィフス・ヨセフスを通して彼らが如何に生活しその信仰はどのようなものであったかについて多くの情報があります。また、彼らの一部の人々が定住したと思われるクムランで発見された、特にパピルスや羊皮紙に書かれた文書による情報もあります。エッセネ派の特筆すべき特徴は、ハスモン朝時代から堕落した祭司により行われていた、エルサレムの神殿での礼拝の否定にありました。結果として、エッセネ派は住民の神聖さを維持し回復する考えの下に共同の礼拝の実践をより絞った範囲、すなわち独自の共同体に分離する方法を選択しました。砂漠に設けられた隠遁の場所の多くは他の人たちとの接触による伝染を避けるのが目的です。経済的な関係を保ったり献金を受けるのをやめるのは、清貧の理想を追うためではなく清浄習慣を守るために外部世界からの伝染を避けるための方法です。神殿すなわち公式な信仰との決別が実現した時、エッセネ派の共同体は経過的にエルサレムの神殿に替わるあたかも実体のない神殿と理解される一方でエルサレムの神殿においては適切でないと考えられる習慣が引きつづき行われていました。

31.イエスはいつも多くの女性に囲まれていましたか?

使徒言行録や新約聖書にある書簡に見られるような初期のキリスト教共同体に引き継がれたイエスの振る舞いや教えは、当時の習慣とは対照的に、女性に対して尊厳を与えていました。

上流階級と大衆との間には隔たりがありましたが、共通している点は公共生活の場において女性の場がないということでした。女性の世界は家庭であり、そこでは夫に従いました。ほとんど家から出ることはなく、出るときは顔をベールで覆い、男性と立ち止まって話をすることはありません。夫は妻に離縁状を与えて離別することができました。確かに、このことは農作業で夫の手助けをする女性のような場合には厳密にはあてはまりませんでした。しかしながら、それでも一人で一人の男性の前に立ち止まることはできませんでした。男性との最も顕著な違いは宗教的な面です。女性は戒律の禁止事項に従わなければなりませんでしたが、いくつかの戒律(エルサレムに巡礼する、毎日シェマアという祈りを唱えること等)からは解放されていました。律法を勉強する義務は負わされておらず、学校は男の子だけのものでした。同様に、シナゴーグで女性は子供たちと同じ席で、男性とは格子で隔てられていて、過越し祭りの正餐には参加することなく、食事後の祝福を述べる人とは見なされていませんでした。

このような状況に対して、福音書の中には、イエスの寛容な態度の多くの事例を見ます。イエスが多くの女性の治癒を行ったことに加えて、失ったお金が見つかるくらい家の中をよく掃除した女性(ルカ15,8)のようにしばしば説教の中で取り上げられています。他の例としては、辛抱強く祈りを続ける未亡人(ルカ18,3), 貧しいが寛大な未亡人(ルカ21,2)の例があります。離婚の解釈を訂正し(ルカ16,18)、そしてイエスは女性が付き従うのを認めました。イエスやその弟子たちにつき従う人々に対してもまた、イエスの態度はより寛大なものでした。イエスにはラザロ(ヨハネ11,1;参照ルカ10,38-39)やアリマテヤのヨセフ(マタイ27,57)のような自宅住まいの弟子たちがいました。同様にマルタやマリヤ(ルカ10,38-41)のような女性の追随者がいました。マリヤについては「イエスの足元に座ってその生の言葉を聞いた」(ルカ10,39)と言われています、それはイエスの弟子が取るような態度でした(参照;ルカ8,15,21)。また、福音書にはイエスおよびその弟子達の巡回による伝道について語られています。このような観点からルカ8,2-3(参照;マタイ 27,55-56:マルコ15,40-41)を理解しなければなりません。そこには次の記述があります、イエスは「町や村を訪れ神の王国の福音を説き伝え歩きました。イエスに12人と幾人かの女性たちが付き従い、彼らは悪霊や病気から解放されました。その女性たちとは、7つの悪魔が体から出てきたマグダラのマリヤ、ヘロデの執事であるクサの妻のジョアンナそしてスザンナで,他に多くが財産をもって参加しました」。女性の中には、イエスや使徒が神の国の福音を説くのに付き従うグループがあり、また奉仕の仕事をするグループもありました。

32.洗礼者聖ヨハネはイエスにどのような影響を与えましたか?

洗礼者聖ヨハネという人物は新約聖書および具体的に福音書の中で重要な位置をしめています。それは、もっとも古いキリスト教の伝統の中で説明がなされており、またかなり古い時代よりその誕生を特別の厳粛さで祝うという大衆の信心の中に深く浸透していました。近年それは新約聖書及びキリスト教の原点の研究の中で特に注目を集めるようになりましたが、それは歴史批評家の視点で洗礼者聖ヨハネとナザレのイエスの関係について何を知りうるかというものです。

二つの出所から洗礼者ヨハネについて語られていますが、その一つはキリスト教でもう一つは非キリスト教のものです。キリスト教のものは正典の4福音書とグノーシス派による聖トマの福音書です。非キリスト教の出所で最も重要なものはフラウィウス・ヨセフスで、彼はその著書ユダヤ古代誌(18,116-119)の中で、ぺレアのマケロンテ要塞でのヘロデ王の手による洗礼者ヨハネの殉教の解説をしています。最終的な影響を評価するためには、それぞれの出所が洗礼者ヨハネの生き方、行動、残した言葉について知りうるところに注目する必要があります。

1.誕生と死
洗礼者ヨハネの生きた時期はイエスと一致します。確かに、イエスより少し早く生まれ、公の生活も少し早く開始しました。彼は祭司の家族出身ですが祭司の仕事はしていませんでした。神殿から離れた所での独立した行動や滞在を見ると,公の祭司職の執行の仕方に反対の態度をとっていた事が窺がわれますが、聖職者としての最初です(ルカ1)。ユダヤの砂漠で過ごしましたがクムランの人々とは関係を持たなかったようです、なぜならば法的な規範(halakhot)に従う上でさほど急進的ではなかったからです。ヘロデ王により処刑され死にました。(フラウィウス・ヨセフス古代ユダヤ誌18,118)。一方、イエスは幼少期をガリレアで過ごしヨハネによりヨルダン川で洗礼をうけました。ヨハネの死を知っており、常にヨハネの人物、その教え、そしてその予言的伝道を称えました。

2.行動
ヨハネの生き方と行動から、ヨセフスは、ヨハネを「善良な人」で多くの人がヨハネのもとに集まり話を聞いて熱狂したと語っています。福音書の著者はより明確に語っています。ヨハネが公的な生活を送った場所のユダヤとヨルダン川地域、衣食面におけるやり方の厳格さ、弟子たちの前でのリーダーシップ、先駆者としての役割、真の救世主としてのナザレのイエスを見出したことなどを具体的に語っています。一方、イエスのほうは、同郷の人々と特に区別されることなく、伝道する場所を特に決めることなく、家族との食事に加わり、普通の服装をして、そしてファリサイ人が法律を文字通りの解釈することに反対しながらも、すべての法的な規範に従い神殿には足繁く通いました。

3.教えと洗礼
洗礼者ヨハネは、フラウィウス・ヨセフスによると、ユダヤ人に対してお互いに善徳と正義を実践し、神を敬いそしてその後洗礼を受けるよう熱心に勧めていました。福音書はヨハネの教えは悔悛、終末論、そしてメシア思想に関するものであることを付け加えています。すなわち、改心を強く説き、神の審判が差し迫っていることを教え、自分よりもっと強い者がやって来て聖霊と火による洗礼を行うだろうと語っています。ヨハネの洗礼は、フラウィウス・ヨセフスにとっては、「体を洗うこと」で義に備えて心を清めることの証です。福音書の著者にとっては、それは「罪の許しを得るための悔い改めの洗礼(マルコ1,5)」でした。イエスはヨハネの教えを否定しませんでした。それどころ洗礼者の教えを出発点とし(マルコ1,15))神の国と世界の救いを告げるためヨハネの役割を否定することなく、自分が洗礼者ヨハネが告げたメシアであると明らかにして終末論への道を開けました。そして、特にその洗礼が救済の源(マルコ16,16)となり弟子たちに与えられた神の恵みを受けるための入り口であると語っています。

つまり、ヨハネとイエスの間には多くの接点がありましたが。しかし今日まで知られている資料ではナザレのイエスは、洗礼者ヨハネの旧約の枠組み(改心、倫理姿勢、救世主に対する待望)を超えて救済の無限の広がり(神の国、万民の贖罪、最終的な啓示)を明らかにしています。

33.イエスは洗礼者聖ヨハネの弟子でしたか?

洗礼者聖ヨハネとイエスの間の関係が直接的で緊密であるとすれば、それは師匠と弟子の関係であったのではないかと疑問を挟む余地があります。この質問に対して適切に答えるためには、学者たちの間で議論された3つの資料について説明する必要があります。それは、ヨハネの弟子、ヨルダン川での洗礼の意義そしてイエスが洗礼者ヨハネを称賛している点についてです。

1. ヨハネの弟子
福音書はヨハネが弟子を持っていたことをしばしば語っていますが、その内のあるものはヨハネのもとを去ってイエスについて行きました(ヨハネ1,35-37)。 弟子たちは単に追随者でした、行動をともにするもの、つき従うもので、きっと生活(マルコ2,18)と考え方(ヨハネ3,22)を共有するものもいました。フラウィウス・ヨセフスは支持者を2種類に分けています。その一つは善徳、正義、信心について熱心に話を聴き洗礼を受ける人たちで、もう一方は「ヨハネの周りに集まりその話を聞いて非常に高揚する人たち(フラウィウス・ヨセフス、ユダヤ古代誌18,116-117)」でした。ヨハネの追随者の中には、イエスがヨハネのライバルのような行動をとっているので(ヨハネ3,25-27)、同じ弟子とはみなせないとヨハネに言い出す者もいました。

2. イエスの洗礼
専門家たちはこれらの事柄の歴史性を疑いませんが、いろいろとある中で福音書の中に加えられてあるということ自体、いくつかの困難を見ることが出来ます。その一つは洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を行ったことによりヨハネがイエスより上位にあるという解釈の可能性、他には悔悛の洗礼を受けたことによりイエスが罪の意識を持っていたと考えうる点です。共観福音書はヨハネが低い立場にあることを認識していた事を明確に語っており、イエスに洗礼を行うことを拒否し(マタイ3,13-17)、天の声はイエスの神としての威厳を明らかにしました(マルコ1,9-11)。そして洗礼について何も触れていない第四の福音書はヨハネがイエスの頭の上に鳩が止まるのを見て(ヨハネ1,29-34)自分がイエスより低い立場にあること認めた(ヨハネ3,28)ことを示しています。とはいえ、このことからただちにイエスが洗礼者ヨハネの弟子であったとは結論づけられません。もし福音書の著者たちがイエスはヨハネの弟子であったと詳しく語らなかったとすれば、弟子でなかったということです。

3. イエスの称賛
洗礼者ヨハネに対する尊敬を表すイエスの二つの文章があります。一つはマタイ(マタイ11,11)とルカ(ルカ7,28)が記しています。「女から生まれた者で洗礼者ヨハネより偉大な者は現われることがない」。もう一つはマルコ(マルコ9,13)にあり、マラキアの予言(マラキア3,23-24)をヨハネに当てはめています「エリアスが最初に来てすべての事を回復するでしょう」。それにもかかわらず、私はあなた方に言います、とイエスは確信を持って言いました、エリアスはもう既にきてヨハネと彼らの望むことを、ヨハネにより書かれたとおり行いました。ヨハネの人間性、彼の行った洗礼(参照;マタイ21,13-27)と彼の教えは、イエスの生活の中で生かされていることは疑いの余地はありません。それにも拘わらず、イエスは全く異なった道を進みました。その行動に関しては、国の全土、首都エルサレム及び神殿の周辺を歩き巡ったこと、教えに関しては万民の救いの御国を説いたということ、弟子に関しては律法の掟と修徳方法にまさる愛の掟を教えたことです。しかし、最も目につく点はイエスがあらゆる時代とあらゆる民族の人々の救済の道を拓いたことです。

結論として、イエスがヨハネの追随者としてある時期過ごしたことは、わずかに考えられるものの確認は出来ておらず、決定的な影響を受けたとは言えないでしょう。イエスは弟子どころか最後で偉大な預言者である洗礼者ヨハネにより告げられたメシア・救済者でした。

34.ペトロとマグダラのマリアはどのような関係にあったのでしょう?

聖ヨハネの福音書は次のように語っています、土曜日の次の日にマグダラのマリアはイエスの墓に向かい、そして墓を覆っていた石が動かされているのを見てそれをシモン・ぺトロと、主に愛された弟子に伝えるべく走りだしました。その知らせを聞いて二人は墓に向かって駆け出しました、その墓では後ほど戻ったマリアが復活したイエスに会います(ヨハネ20,1-18)。これは福音書がペトロとマリアの関係について語った全てです。歴史的な視点からはこれ以上付け加えることはありません。トマスの偽福音書は、多分西暦2世紀に書かれたもので正典ではありませんが、受難の最後の場面やよみがえったイエスの復活や出現について語り、マリアをイエスの弟子としています。

グノーシス派の人々を源とする2次的な文献ではペトロとマリアの対立に関係するいくつかの記述があります。前提として、その文献は歴史的な根拠はなくグノーシス派の教義を伝えるための手段として種々の人物の間の虚構の対話という手段に頼っていることをまず念頭に置いて頂きたいです。マリアの福音書はこのような文献の一つで、そこにおいてマリアが受けた秘密の啓示に対するペトロの無理解について述べられています(参照「マグダラのマリアの福音書は何を語っているか?」)。もっと古いと思われる他の記述はトマスによる偽福音書です。ここでは、シモン・ぺトロの話したことが最後に語られています「マリアを我々から遠ざけろ、女は生きるに値しないのだから」。それに対しイエスは答えています「見よ、私は彼女を男に変えて見せよう、同時に生きる聖霊に変えて見せよう、こうすればあなたたち男と同じになる。このように全ての女は男になり天の王国に入ることになろう」。またPistis Sophia( グノーシス派の重要文献)によると、ぺトロは我慢できなくなり、何故マリアはみんなよりグノーシス派の意味での奥義を理解しイエスにより称賛されるのかとの抗議をしました。「主よ、あの女に話をすることを許可しないでください、なぜなら我々の地位を奪い我々に話をさせなくなるからです」(54b)。(ここでは、しかしながら、ここではマルタと一緒に居るのは、マグダラのマリアではなく、マルタとラザロの姉妹のマリアである可能性があります。ただし二人のマリアを同一人物と考える、可能性もあります)。これらの文献の中では、ラビの考え方の受け継いできた性格がわかりますが、それによると女性は宗教上の教義(ヨハネ4,27参照)を理解できません。同時にグノーシス派の固有の人間観が現われており、これによると女性たちは「秘教の秘儀」の啓示の伝達手段として卓越した場を占めています。

ペトロとマグダラのマリアの関係は、ぺトロとヨハネ、ぺトロとパウロ、ぺトロとサロメ等の関係と同じものであったに違いありません。すなわち、それは教会の前面にいた者とイエスの弟子でその復活後生き返りの証人となり福音書を宣べ伝えた者との関係です。その他の関係は想像上のものです。

35.最後の晩餐で何があったか?

イエスの受難と死に先立つ時間は、イエスと共に過ごした人々の記憶に非常に強く刻み込まれました。従って、新約聖書では最後の晩餐におけるイエスの言動が事細かに記述されています。ヨアキム・イエレミア(プロテスタントの聖書学者)によると、この記述はイエスの人生の生涯に関するエピソードの中で最良のかたちで立証されているもののひとつです。その場面に居るのはイエスと12人の弟子たちだけで(マタイ26,20;マルコ14,17と20;ルカ22,14)、母であるマリアも聖なる婦人たちも同席していませんでした。

聖ヨハネによると、最初にイエスは意味深長なジェスチャーで仕えるという謙虚の模範を示すために弟子たちの足を洗いました(ヨハネ13,1-20)。それに続いてこの集りの劇的な出来事が起こります。弟子たちの一人はイエスを裏切るであろうとイエスが告げると、聞いていた弟子たちは驚愕し、互いに顔を見合わせます。そこでイエスは細やかな仕草で暗にユダの裏切りを示しました(マタイ26,20-25;マルコ14,17-21;ルカ22,21-23;ヨハネ13,21-22)。

晩餐の中で、最も驚くべきことはエウカリスチア(聖体)の秘跡が制定されたことです。その時に起こったことは四つの物語として書き残されています。その内の三つは共観福音書(マタイ26,26-29;マルコ14,22-25;ルカ22,14-20)とパウロ(1コリント11,23-26)のものです。いずれもよく似ています。四つ共に簡潔な記述ですが、ミサ聖祭を執り行い、新たな儀式を定める、イエスの行為と言葉を思い起こしています。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。〈これは、あなたがたのために渡される私の体である。私の記念としてこのように行いなさい〉」(ルカ22,19以下)。

この言葉はイエスが弟子たちと共にした晩餐が、いつもの晩餐と違い、根本的に新しい出来事であったことを示しています。イエスは食卓を囲んでいた人たちにパンではなく、パンの外観のもとに全く異なるものを与えました。「これは、私の体である」。そして、その場にいた使徒たちに、自ら行ったことを彼らが行うための力を与えました。「これを私の記念として行いなさい」(ルカ22.20以下)

晩餐の終わりにはもう一つ特別なことが起こります。「食事を終えてから、杯についても同じように言われました、「この杯はあなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」。

使徒たちは、その前にパンの外観のもとにイエスの体を受けたので、今度は御血の杯を飲むよう与えられていると理解しました。こうしてキリスト教の伝統は、イエスの御体と御血が別々に与えられたという記憶のうちに、やがて十字架上で完成されるいけにえの効果的なしるしを見たのでした。

最後の晩餐の間、イエスは愛情をもって語り、その言葉は使徒たちの心に深く根を下ろしました。聖ヨハネによる福音には、この最後の話しの記憶が書き残されてあります。そのとき、新しい掟が与えられ、それを実行することがキリスト教と他の宗教との違いを示す特徴となることでしょう。「私はあなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆がしるようになる」(ヨハネ13,34-35)。

36.何故イエスは死刑に処せられたのですか?

ナザレのイエスという人物はその宣教が広がるにつれて非常に議論の的になってきました。

エルサレムの宗教権力者たちはイエスが過越しの祭りにガリレアにやってきた時に民衆たちに引き起こした動揺に不安感を示しました。ローマ帝国の支配者たちも同様に不安感を示しました。というのも、ユダヤ人の独自性を訴えてきた地元の指導者の指導のもとに引き起こされたローマ帝国の占領に対する反乱が時々発生したため、〈神の王国〉の到来に備えよと語るこの宗教指導者の到着の知らせを耳にした人々は、心穏やかではありませんでした。それぞれの動機は違ってもいずれの人たちもイエスに対して警戒していました。

拘束されたイエスのケースは衆議所に於いて取り調べられました。それは、後にミシュナー(サンヘドリンⅣ,1)で取り上げられることになる、出頭命令書を伴った正式の手続きを踏まずに取り扱われました。その手続きで要求されていた事は、とりわけ一日の手続きで済むものです。しかしながら、それは教えに関して受け取った訴えや疑惑を検証するために私宅での尋問でした。具体的には、ユダヤ教神殿に対するイエスの批判的な姿勢に対して、言葉と態度で挑発するその人物を覆っている救世主のオーラ、そしてなかんずく、自分は神の権威を持っていると主張している点についてでした。教義自体が問題である以上に、多分、宗教権力者を真に心配させたのはローマ帝国の支配に対する扇動を恐れでしょう。それはローマ人が堪えることが出来ない大衆の動乱を引き起こすのではないか、またその時点で維持されていた政治的な状況が悪化するのではないかとの動揺でした。

この様な事態であったので訴訟はローマの総督であるピラトのところに上申され、イエスに対する法的な取り扱いはローマ帝国の権限に委ねられることとなりました。ピラトの前でもユダヤ人たちはイエスが〈神の国〉を語ることはローマ帝国にとっても脅威となろうとの恐れが表明された。ローマの総督は事態に対処するために二つの方法を考えました。

その一つは懲罰(強制的なやり方での罰)で、これは公の秩序を維持するために総督に与えられていた権限です。その権限の下に見せしめの刑罰を科することが出来、それは処罰として死刑も含まれていました。もう一つの方法は、審問を行うことでした。これは正式の訴訟手続きでこれに従うと、告訴状が作成され尋問があり、そして法律に従って判決が言い渡されます。

ピラトはどのように処理するか迷った時がありましたが、最終的には当時のローマの属州に於いて慣行的に行われていた方法に従いました。それはcognitio extra ordinemと呼ばれる審問のことで、これに従うと総督自らが審理の手順を決め自ら判決を下します。この様に、個々の記述の中に反映されている一見偶然に起こったと思われる事柄の詳細が理解できます。ピラトは告訴状を受け取り、尋問し、そして判決を言い渡すために法廷に座りました(ヨハネ19,13;マタイ27,19)。それから、正式の有罪として十字架上での死刑の判決を下しました。Titulus crucisの中で明らかなように〈ユダヤ人の王〉として処刑されました。

イエスへの死刑判決をめぐる歴史的な評価については非常に慎重に行う必要があり、公正さを欠く評価につながる性急な一般化を行ってはなりません。具体的には、イエスの死に関してユダヤ人全てに責任があるのではないことは明白ではありますが、この点を強調しておくことは重要です〈我々の罪がキリスト自身に届くことを考慮に入れて〉(参照;マタイ25,45;使徒言行録9,4-5)。教会はイエスの刑罰における最も重い責任をキリスト教徒に負わせることに躊躇しませんが、その責任はあまりにもしばしば公の犯罪の咎をユダヤ人に負わせることになったからです。

37.カイアファは誰ですか?

カイアファ(ヨセフ・カイファス)はイエスと同時代の大祭司でした。これは新約聖書(マタイ26,3;26,57;ルカ3,2;11,49;18,13-14;ヨハネ18,24.28;使徒言行録4,6)の中でいく度か引用されています。ユダヤ人の歴史家のフラウィウス・ヨセフスが語るところによれば、カイアファは紀元18年ごろヴァレリオ・グラトに任命され大祭司に昇りつめ、36年ごろヴィテロにより解任されました(ユダヤ古代誌18.2.2&18.4.3)。アンナスの娘の一人と結婚していました。また、フラウィウス・ヨセフスによると、アンナスは紀元6年から16年の間大祭司でした(ユダヤ古代誌18.2.1&18.2.2)。その年代記及び福音書が示すところによると、カイアファはイエスが十字架上での死刑を宣告された時の大祭司です。

彼が大祭司としての長く在任したことは、カイアファがローマ帝国の行政機関及びピラトが総督の間、非常に友好的な関係を維持してきたことを意味する以上の証拠です。フラウィウス・ヨセフスの記述の中で、ユダヤ人の宗教及び国民としてのアイデンティティーに対するピラトの軽蔑及びピラトに対して抗議に立ち上がった人々の具体的な声が書かれています。ピラトの横暴に対して抗議した人々の中に、まさにその当時大祭司であったカイアファの名前が無いことは両者の間の良好な関係をはっきりと示しています。ローマ帝国の行政官たちとのその親密で協力的な姿勢は、イエスの裁き及び十字架での死刑の宣告に関する福音書の中で語られてところにも反映されています。全ての福音書の記述は、イエスの尋問に際して、大祭司たちがイエスをピラトに引き渡すことに合意したということで一致します(マタイ27,1-2;マルコ15,1;ルカ23,1;ヨハネ18,28)。

初期のキリスト教徒がイエスの死をどのように理解したかを知るために、イエスの有罪判決に先立つ審議に関して福音書で語られていることは重要です。「彼らの一人でその年の大祭司であったカイアファが言った。あなた方は何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方があなた方に好都合だと考えないのか。これはカイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司だったので予言してイエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬ、と言ったのである」(ヨハネ11,49-52)。

1990年、エルサレムにあるタルピオット墓地の中で12の納骨棺が見つかりました、その内の一つにはヨセフ・バル・カイアファと刻印されており、これはフラウィウス・ヨセフスがカイアファと判断したものです。中には西暦一世紀のもので、その容器に入っていた遺骨は福音書の中で書かれているものと同じ人物のものと考えられます。

38.サンヘドリンは何ですか?

サンへドリンはユダヤ法の最高法院で、口頭と書面の両面でのトーラーを解釈し適用して正義を確保することを使命としていました。同時に、それはローマ帝国権力に対するユダヤ人民の代表という性質を誇示しました。

昔からの伝統に従い71人のメンバーがいて、想像するとこでは、モーゼ自身に加えモーゼを支える70人の長老が正義を確保する上で行った役目を引き継ぎました。それは聖職者の貴族や名門の家族などの代表者を含めて発展しましたが、その時期は多分紀元前5-6世紀のペルシャの時代です。それについて初めて言及されたのはシリアの王、Antioco3世(紀元前223-187年)の時でGerousia(長老委員会)という名前です。Hiracano2世(紀元前63-40年)の時からSynedrion という名前になったことが確認されています。当時それを主宰していたのは君主のアスモネオで、彼もまた大祭司でした。

ヘロデ大王はその支配の最初にメンバーの多くを処刑するよう命じました、その数はフラウィウス・ヨセフスによると45人でした(ユダヤ古代誌15,6)。なぜならば長老委員会は敢えてヘロデ大王の権限が及ぶ範囲を明確にしようとしたからです。その委員たちは大王に従順な人に変えられました。ヘロデ大王そしてその後のアルケラオの時代にはサンヘドリンはほとんど重要性を持たなくなっていました。

ローマ帝国の行政官による支配の時代、そしてポンテイオ・ピラトの時、サンヘドリンは再びユダヤの領土内に於いて民事及び刑事での司法の機能を果たしていました。その時代のローマ帝国の行政官との関係は流動的で、委ねられた自治の相対的な範囲は、支配地に対するローマ帝国の政策と調和させられました。それにもかかわらず、その当時gladiiと呼ばれていた死刑を宣告する権限は、皇帝から広範な法的な権限が与えられていたローマ帝国の総督(praefectus)に留保されており、たぶんそれはその権限の一つであったでしょう。従って、サンヘドリンは自分たちに権利があると考えても、誰に対してもも死刑を宣告することはできませんでした。

イエスを尋問するために夜中に開かれたサンヘドリンのメンバーによる会合は、死罪に値する告発状を推敲するための調査に外ならず、翌朝ローマ帝国の総督に対してイエスを告発するために提出するものでした。

39.イエスの死はどのようなものであったか?

イエスはNisan(ニサン)の月の14日目、西暦30年4月7日に十字架上に釘で打ち付けられて死にました。福音書の記述への批判的な分析からこのように結論づけられますが、これはタルムードで伝えられている死に関する言及とは異なるものです。

十字架に張り付けるというのはローマ帝国が奴隷と反逆者に科した死刑の一つです。それは、不名誉という意味合いがありローマ市民には適用されず、外国人のみに適用されました。ローマ帝国の行政官がそれをイスラエルの土地に導入して以来、比較的しばしば行われたことを示す多数の証拠があります。シリアのQuintilio Varo総督は反乱に対する報復として紀元前4年に2000人のユダヤ人を十字架にかけました。

イエスがどのような形で十字架に架けられたかということについて言及する上で、エルサレムの郊外にあるGivat ha-Mivtar の墳墓で行われた発掘は間違いなく興味深いものです。そこで、西暦1世紀の前半に十字架に架けられた人の埋葬が発見されました。すなわち、イエスと同時代のものです。墓碑銘からHaggolの息子のヨハネという名前が判ります。身長は170センチで、死んだ時はおよそ25歳であったと推測されます。十字架に架けられた者であることは疑う余地がありません。というのも墓掘り人は足を留めていた釘を取り除くことが出来ず釘を付けたまま埋葬しています。同時に十字架の木の一部分も残っていました。これからその若者の十字架はオリーブの木でできていた事が判りました。両脚の間に木の小さな出っ張りがあり、それが体を少し支え、椅子として使えたように見えます。そのようにして罪人は少し力を回復することが出来たわけで、その支えが無かったら腕から吊り下げられた全体重で窒息による即死につながったでしょうが、それを避けるために呼吸が出来るようにし、苦痛を引き延ばしたのでしょう。両脚は僅かに開き、たわませてあったようです。その墓の中で発見された遺骨の手の骨は釘が貫通しておらず、砕けた形跡もありません。従って、多分その人の両腕は単に十字架の横木に強く縛りつけられていたのであろうと考えられます(これはイエスが釘を打たれていたのとは異なります)。一方、両足は釘で貫かれていました。その片足には大きくて十分に長い釘が打たれたまま残っていました。その置かれていた位置から、同じ釘が両足を貫通していたと考えられます。すなわち両脚を少し開き、支柱が両脚の間にくるようにし、右くるぶしの左側と左くるぶしの右側を横木の側面で支え、長い釘を最初に足のくるぶしからくるぶしに打ち、その後に木の支柱に、続いてもう一方の足に打ちこんだと考えられます。キケロがよると、その十字架への磔の刑は〈最も重い罪〉、〈最も残酷かつ残虐〉、〈最悪かつ極悪、奴隷に対する拷問〉です(キケロVerrem Ⅱ、Ⅴ、60-61)。

それにもかかわらず、イエスの十字架上での死を想像して、真実に近づくためには歴史が例証できる悲劇的な痛ましい詳細にとどまっていては十分ではありません。最も深い真実は「キリストは聖書に書いてあった通り我々の罪のために死んでくださったのである」(1コリント15,3)と告白することです。十字架上の死に寛大に身をゆだねたということは全人類に対する神の愛情の大きさを明らかにしています。「私たちがまだ罪人であった時、私たちの為に死んでくださったことによって、神は私たちに対するご自分の愛を示されているのです」(ローマ5,8)。

40.イエスの復活をどのように説明すればよいか?

キリストの復活は歴史的に確認された本当の出来事です。使徒たちは見こと、聞いたことについて証言しています。西暦57年ごろ、聖パウロはコリントへの書簡の中で次のように書いています。「私がまず最も大事なこととしてあなた方に伝えたのは、私も受け継いだものです。それはキリストが、聖書に書いてあった通りに三日目に復活したこと、そしてケファに現われ、次いで、十二人に現われたということです」(1コリント15,3-5)。

起こったことの真実を、現在、可能な限り客観的に探ろうとすれば、次の疑問が出てくるでしょう。イエスが生き返ったという言明はどこから出てきたのか?人類史に於いて異常な反響を呼んだことを操作した結果なのか。もしくは弟子たちを唖然とさせたように、今も驚くべきまた予想も出かない事実なのか。

これらの疑問点に対する合理的な答えを探しだすには、死後の世界に関してそれらの人々が何を考えていたのかを調べ、復活の物語が人々の考え方に合っていたかどうかを評価しなければなりません。

まず、ギリシャ人の世界では死後の世界に関する言及があるとはいえ、それは特異なものです。ホメロスの詩以降繰り返し語られたモチーフである、「ハーデス」とは、死のすみかであり、生きる人々の住居のあいまいな記憶のごとき陰の世界です。しかしホメロスはハーデスからの帰還が実際に可能であるとは想像したこともありませんでした。プラトンは異なった視点から生まれ変わりについて思索しましたが、ひとたび死んだ肉体が再生するということについては考えませんでした。つまり、死後の世界についてはしばしば語られましたが、ある人が現世の肉体に戻るという復活の考え方には一度も思いつくことはなかったのです。

ユダヤ教ではこれと一部は異なっているが一部は共通の考え方がありました。旧約聖書や古代のユダヤ教の経典が語る「シェオール」はホメロスの「ハーデス」と大きく異なったものではありません。その世界に於いて人は眠りについていました。しかし、ギリシャ人の考え方との違いは、そこには希望に向けて開けられた門があったという点です。主は唯一の神で、それは生きている人と同様に死者に対しても、「シェオール」と同様に天上の世界でも、力を持っていました。死に対して勝利することは可能です。ユダヤの伝統では、しかしながらある種の復活を信じていました、少なくとも一部の人々は。また、メシアの到来に対する待望がありましたが、それらの出来事はお互いに関係がありませんでした。イエスと同時代のどのユダヤ人にとっても、最初は、非常に異なった環境の下で動く二つの神学的な疑問が問題となりました。メシアが主の敵たちを打ち負かし、ユダヤの神殿崇拝を再度全盛にして純粋にし、そして主が世界を支配することを信じていましたが、死後に復活するということは考えてもいませんでした。それは敬虔で教育を受けたユダヤ人の想像の常識を超えるものでした。

イエスがメシアであることを示す証拠とするために、イエスの遺体を奪い去り、その復活をでっち上げて言いふらしたという話は考えられません。使徒言行録によると、聖霊降臨の日、ペトロは断言しました。「神はこのイエスを死の苦しみから解放して復活させられました」。そしてこう結んでいます。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架にかけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒言行録2,36)。使徒たちが今まで想像したこともないことが起こり、困難と嘲笑に晒されて当然と思えたにもかかわらず、証言しないわけにはいかなかったのです。

41.イエスの体を盗むことができたのですか?

イエスが生き返り、彼が埋葬されていた墓が空であったとの主張に対して、その知らせを不快に感じた人々がまず最初に考えたことは、イエスの遺体は盗まれたということでした(マタイ28,11-15参照)。

ナザレで発見された「チェザルの命令書」と題する碑文では、墓をあばいたり死体を持ち出したりすることを厳しく禁じています。西暦30年ごろナザレに生まれたある人物の死体が消えうせたことが、エルサレムで大きな波紋を引き起こし、ローマ皇帝自ら対処に乗り出したことが伺えます。

それでも、死体は盗まれたのではないかという疑いは残ります。しかし、イエスの墓が空であったという出来事は、墓に近づいた婦人たちやイエスの弟子たちには非常に強い衝撃を与えたのです。彼らが、再び生き返ったイエスを見る前であったにもかかわらず、空の墓はイエスの復活を認めるための第一歩となりました。

聖ヨハネの福音書の中に事の次第に関する詳細な記述があります。ペトロとヨハネがマグダラのマリアから話を聞くや否や、ペトロは他の弟子と墓に飛んで行きました。「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」(ヨハネ20,4-8)のです。

ペトロともうこの福音書の著者自身であるヨハネが、空になった墓の中で見たことを描写するために使った言葉は、彼らがあのとき受けた印象を生き生きとリアルに表現しています。まず、墓の中に遺体を包んでいた亜麻布を見つけたことの驚きです。もし誰かが遺体を運び出すために墓に入ったとすれば、わざわざ布を脱がせたでしょうか?理屈に合うとは思えません。更に頭を包んでいた覆いが、離れた所にイエスの頭を包んでいたときと同じ状態で「丸めてあった」のです。亜麻布はあたかも遺体を包むような形で残されていましたが、今や平らになって中身もなく、あたかもイエスの体が布を剥がすこともなく、そのまま抜け出て消滅したかの様でした。ヨハネの叙述は、イエスを覆っていた布は、元の状態のままで残されていたことを証言しています。

福音書の描写はその二人の弟子が仰天して見たことを異常な正確さで記しています。イエスの体がそこから無くなっていたことは、人間の常識では説明できないことでした。誰かがそれを盗んだことは物理的にあり得ないことです。というのも亜麻布を取り除くには、頭を包んでいた覆いなども解かなければならないからです。しかし、それらは弟子たちの目には金曜日の午後に主の体が置かれていた時と同じ状態でした。唯一の違いはイエスの体がもはや無かったということです。他の全てのものは元の状態にありました。墓の中で見つけた他のものは主の復活を直観させるほど意味があったので、「見て信じた」ということです。

42. アリマタヤのヨセフとはどのような人でしたか?

アリマタヤのヨセフはイエスの受難と死に関して4つの福音書の中で登場します。彼はユダヤの町アリマタヤ(ヘブライ語でArmathajim)の出身でした。この町は、リッダの北東10kmにある現在のレンティスで、旧約時代の預言者サムエルが生まれた所です(1サムエル1,1)。金持ちで(マテオ27,57)、サンヘドリン(最高法院)の身分の高い議員(マルコ15,43; ルカ23,50)であったヨセフは、エルサレムのゴルゴタの近くに、岩に掘られた新しい墓を持っていました。彼はイエスの弟子でしたが、ユダヤの権力者を恐れてそのことを隠していました(ヨハネ19,38)。ルカは、ヨセフが神の国を待ち望んでいてサンヘドリンでのイエスの非難決議には同意しなかったと書いています(ルカ23,51)。残忍な十字架刑が執行される際、彼は恐れずローマ総督ピラトの所に行きイエスの遺体の引き渡しを願い出ました(2世紀の外典『ペトロの福音書』2,1; 6,23-24によると、ヨセフはイエスが十字架につけられる前に願い出たとあります)。ヨセフは総督の許可を得て、イエスの体を十字架から取り外して清潔なシーツに包み、ニコデモの手を借りて、まだ誰も使ったことのない自分の墓に安置しました。そして大きな岩でその墓を閉じてその場を立ち去りました(マテオ27,57-60, マルコ15,42-46, ルカ23,50-53, ヨハネ19,38-42)。ここまでは歴史的資料に基づきます。

4世紀以降にヨセフという人物を称賛する空想の伝説が生まれました。5世紀の外典『ピラト言行録』(別名は『ニコデモの福音書』)が語るところによるとユダヤ人はヨセフとニコデモがイエスのために取った行動を非難し、それによりヨセフは投獄されました。ヨセフは奇跡的に自由の身となりアリマタヤに現われました。そこからエルサレムに戻りイエスのおかげで自由の身にされたと語っています。ヨセフについて、より大きく語っている伝説は、イングランドとアクイタニナ(古代ローマのガリア四属州の1つ)で広く読まれた、4世紀に書かれたと思われる『救世主の復讐(Vindicta Salvatoris)』という文学作品です。その作品のなかで、テトスがイエスの死の復讐をするために軍隊の先頭に立って行進している姿が語られています。彼はエルサレムを征服する時に、塔に閉じ込められていたヨセフに遭遇しました。反対者たちはヨセフを餓死させようとしていたのでした。しかし、ヨセフは天の食事を与えられて生き延びていたという話です。

11~13世紀ごろ、アリマタヤのヨセフの伝説はブリテン島やフランスで聖杯伝説やアーサー王物語に挿入される形で再び詳しく彩られました。それらの伝説の一つによると、ヨセフはイエスの体を洗い、容器の中にその水と血を集めました。その後、ヨセフとニコデモはその水と血を二人で分けました(質問48.「聖杯とは何か」を参照)。もう一つの伝説が語るところによれば、ヨセフはこの遺品を携えてフランス(いくつかの伝説ではマルタ、マリア、そしてラザロと一緒にマルセーユで船を降りたと語られています)、スペイン(そこではヤコブにより司教に叙階されたと記されています)、ポルトガル、そしてイギリスで布教をしました。この最後の土地では、ヨセフという人物は非常に人気を博しました。伝説では、彼はブリテン、具体的にはグラストンベリー・トールでの最初の教会の創設者になりました。そこでは彼が寝ている間に彼の杖から根が生えて花が咲いたと伝えられています。グラストンベリー修道院は宗教改革のあおりで、1539年に解散されるまで、重要な巡礼地になっていました。フランスの伝説によると、シャルル・マーニュの時代、エルサレムの総大司教フォルトゥナトはアリマタヤのヨセフの遺骨を持って西方に逃げ、モワヤンムティエの修道院にたどり着き、そこで修道院長になったということです。

これらの伝説には歴史的根拠はありませんが、イエスの最初の弟子たちが重視されていたことを示しています。これらの物語の展開は、イギリスやフランスといった特定の地域の人々が、ローマに対してライバル意識を持っていたことと関係するのではないかと思われています。これらの地域では、ローマから派遣された宣教師によってではなくイエスの弟子たちにより布教されたことを示したかったのであろうと言うわけです。しかしながら、アリマタヤのヨセフをめぐる記述は歴史的事実とは関係ありません。

43.キリスト教のメッセージとは何ですか?

キリスト教のメッセージは、イエス・キリストの宣教によって成り立っています。それは、使徒たちが最初から宣言した良い知らせ(福音)のことです。聖パウロは次のように書いています。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。(・・・)最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(1コリント15,1-5)。この言葉は、イエスがわたしたちの救いのために死去し、そして復活したこと、及びイエスは、神がイスラエルに約束され神よりつかわされたメシア〈キリスト〉であることを直接言及しています。イエス・キリストのメッセージは、従って、世界と人間の創造主および救いの歴史の主役である唯一の神を信じることを含みます。

キリスト教のメッセージは、神から人類に対する啓示がイエス・キリストによって満たされ完結したことを教えています。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法のもとに生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を購い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤ4,4-5)。イエスは神がいかなるお方であるかをまったく新し方法で、それまでのイスラエル人の理解をより深く掘り下げて示したのです。イエスは神を自分の父として示しました。それは、「わたしと父は一つである」とまで言える唯一で特異な関係なのです。使徒たちの教えに基づき、教会は、イエス・キリストは神の御子であり、父なる神と同じ本性を有する神であると宣言します。

イエスはこの地上で過ごされた間、神の力と彼の内に現存する神の霊の力でもって活動し(ルカ4,18-21)、更に、復活し御父の傍らで栄光を受けた後に聖霊を遣わすことを約束しました(ヨハネ14,16;他)。五旬祭の日に聖霊を受けたとき、使徒たちはイエスが約束を果たしたことを理解し、自分たちが変革的な力を得たとことを実感しました。聖霊は、あたかも肉体に命を与える霊魂のように、教会に活力を与え続けます。従ってキリストの教えは真の神・三位一体の第三のペルソナである聖霊を含んでいます。

キリスト教のメッセージはイエス・キリストが宣教した教えを伝えています。それは、「神の国」の教えです(マルコ1,15)。イエスはこの象徴的な表現を豊かな内容で満たしました。「神の国」は、人間の歴史の中に、そして歴史の終りにおいても神が現存なさることを教えています。また、「神の国」は、神が人間と一つになってくださることも教えています。イエスは、自らが人々と共にいることによって、また、悪魔の力と悪から人間を解放することによって、すでに神の国が始まっていることを宣言しました(マタイ12,28)。

イエス・キリストのこの現存と行動は、聖霊の力により教会の中で引き継がれています。教会は、人間の歴史において、神の国の芽生えであり種子というべきもので、歴史の終焉におけるキリストの再臨をもって栄光ある完成を迎えるのです。その完成を待つ間、人は教会において洗礼を受け、神との新たな関係を獲得するのです。つまり、イエス・キリストと一致し、神との父子関係を獲得するのです。この関係は、死後の最終的な復活によって完成されるのです。キリストは現実に教会に現存しています。また、ミサにおいて現存しています。また、神の恩恵の効果的なしるしである秘跡において働き続けています。キリスト者が愛徳に生きるならば、その行動を通して全ての人に対する神の愛が明らかにされます。以上全てがキリストのメッセージに含まれているものです。

44. 聖パウロとはどのような人でしたか?イエスの教えをどのように伝えましたか?

パウロはヘブライ人のユダヤ教徒で、パウロとはサウロのギリシャ名です。現在のトルコ南東に位置するキリキア州のタルソス出身のパウロは西暦1世紀の人物です。パウロはキリストと同時代に生きていましたが、実際に出遭ったことはなかったようです。

タルソのサウロは、1世紀のユダヤ教の一派であるファイリサイ派の教育を受けました。サウロ自身が書いた書簡の1つであるガラテアの教会への手紙によると、サウロのユダヤ教に対する情熱が新興グループであるキリスト教徒への迫害に向かわせたようです(ガラテア1,13-14)。サウロはダマスコ途上でイエスに出遭うまで、キリスト教徒はユダヤ教の純粋さに反するものと考えていました。その時イエスは、他の使徒たちの場合と同じく、自らをサウロに示し、付き従うよう招きました。サウロはその呼びかけに応えて洗礼を受け、生涯をかけてイエス・キリストの福音を告げ知らせることになります(使徒言行録26,4-18)。

パウロの回心はその生涯の鍵の一つです。正にその時から、教会がキリストの体であるという点を理解し始めたからです。すなわち、一人のキリスト者を迫害することはイエスを迫害することであると悟ったのです。同じメッセージの中で、イエスは自らを「復活した者」として示しました。イエスの足跡を歩むすべての人が死後迎える状態です。さらにイエスは自らを「主」(ギリシャ語では「キリエ」)として示しました。この言葉はギリシャ語聖書において、神ご自身を表すために使われます。これによって、イエスは自らが神であることを明らかにしたのです。こうして、パウロは宣べ伝えるべき福音を、イエス自身を宣べ伝えることとして受け取ったと言うことができます。ただしその後、恩恵の助けと、また自らの考察を通して、福音に含まれている主な真理を最初に受けた光から引き出して行きました。それは神の神秘をより深く理解するためであり、またキリストに対する信仰をもつ人々と持たない人々の状態を示し、各々が取るべき行動を導き出すためでした。

回心したときのパウロは、非常に具体的な使命が与えられた預言者の姿で描かれています。新約聖書の書である使徒言行録によると、パウロに洗礼を授けるはずのアナニアに主はこう言われました。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、私が選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(使徒言行9,15-16)。主はパウロ自身にも言われました。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現われたのは、あなたがわたしを見たこと、そしてこれからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なるものとされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」(使徒言行録26,15-18)。

聖パウロは救いの道を説く使命を成し遂げました。その活動は使徒として旅行し、ローマ帝国の様々な州でキリスト教共同体を設立し、固めてゆきました。旅行をしたところはガラテア、アジア、マケドニア、アカイア等です。新約聖書の記述は作家であり説教者パウロの姿を表しています。パウロはある場所に着くと福音を宣べ伝えるために先ずユダヤ人の集会所であるシナゴーグに行きました。その後にユダヤ人でない異教徒のところに行きました。ある場所を立ち去った後、福音宣教が完全に終わらなかった場合や、訪問した共同体から送られてきた質問に答える場合にパウロは手紙を書き始め、それは格別の畏敬をもって各教会ですぐに受け入れられました。パウロは共同体全体に宛てた手紙と個人宛ての手紙を書いています。新約聖書にはパウロの説教を出所とする14の手紙があります、それらはローマの信徒への手紙、2通のコリントの信徒への手紙、ガラテアの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、2通のテサロニケの信徒への手紙、2通のテモテへの手紙、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙です。これらの手紙の書かれた時期を確認することは容易ではありませんが、多くの手紙は西暦50年から60年にかけて書かれたと言えます。

パウロが宣べ伝えた教えの中心は、人間の救いのために行動したイエス・キリストの姿です。御父と聖霊との緊密な一致の内にキリストが行った人間の罪の贖いは、人間のおかれていた状態にも、また、人間と神との関係においても、転換点を刻むことになります。贖い以前は人間は罪の道を歩み、ますます神から遠ざかっていました。しかし今や復活し死と罪を克服し、信じて洗礼を受けた人たちと一つになった主(キリエ)がおられます。この意味で、パウロの神学を理解するための鍵は回心(メタノイア)であると言えるでしょう。すなわち、無知から信仰への、モーセの律法からキリストの掟への、罪から恩恵への回心なのです。

45.フィリポによる福音書は何を語っていますか?

「フィリポによる福音書」は、現在カイロの博物館にあるコプト語で書かれたナグ・ハマディ文書の第Ⅱ写本に第3文書として含まれています。これは聖エピファニオが、エジプトの異端者が使用していた言う「フィリポの福音書」や、他の教会著述家が、マニ教徒によって書かれたと言っているものとは関係はありません。

ナグ・ハマディの記述(古写本Ⅱ51,29-86,19)は、「フィリポによる福音」という題をつけられましたが、実際は、福音書ではなく、イエスの生涯の物語でもフィリポの作とされている文献でもありません。タイトルは後になって原本に付け加えられたものです。大工ヨセフが自ら植え育てた木を使って十字架を作った(91)という言葉をフィリポのものとし、それを土台にしておそらく原文は3世紀ころにギリシャ語で書かれたものです。

その写本はお互いに関連性のない、およそ100ぐらいの思想によって構成されています。その内の17個は主の言葉として示され、さらにその内の9個は正典の福音書に由来し、残りは新たなものです。多くのものは、それ以前の説教や要理指導の文言などの出所から引用された文節です。グノーシス派に固有な教義を反映しており、ウァレンティヌス派のような他のグノーシス派と部分的によく似ています。たとえば、

a) 天の世界(プレロマ)が一対の組み合わせとして理解されていることです。“父なる神と上位のソフィア”、“キリストと聖霊(聖霊は女性と理解されています)”、そして、“救い主と物質世界を生む下位のソフィア”という組み合わせです。

b) いろいろなキリストを区別すること、たとえば、地上に現れるイエス。

c)すでに、現世で魂(人間の女性的要素)がプレロマ(男性的要素)から生まれる天使と結合することが救いであると考えること。

d) この結合を獲得することのできる霊的な人間とそれが得られない物的(肉体的)な人間を区別すること。

この福音書に関して最も注目を集めている点はイエスとマグダラのマリアについて書かれていることです。彼女はキリストの「伴侶」として示されており(36)、主は弟子たちよりも彼女を愛していたので「主は何度も口づけをした」と書かれています(59)。一見エロティックなこれらの表現は、マグダラのマリアがグノーシス固有の完成を得てキリストが与えた光明に到達したことを象徴化するために用いられています。「婚礼の間」を、一つの秘跡、あるいは神秘として語る場合も、同じく象徴的な意味です。「婚礼の間」は、洗礼、塗油、聖体、贖いの頂点ということになります。結婚のイメージは、この「婚礼の間」という秘跡において、魂と天使が結合することを象徴しています。「フィリポの福音書」において、この秘跡は人間が原初において持っていた一体性が、現世において獲得されることを表していますが、それは天上において完成することになります。それこそ、本当の意味で真の「婚礼の部屋」であるとこの作者は考えているのです。

46.イエスの奇跡を如何に説明しますか?

イエスに対するユダヤ人や異教徒の最も古い非難の中に、イエスは魔術師であるというのがあります。2世紀にチェルソがナザレの教師は魔術を行うと非難しましたが、オリゲネスはそれを論駁しました。聖ユスティノ、アルノビウス、ラクタンティウスもこの点に言及しています。また、2世紀に遡るユダヤのある伝承にも魔法に対する非難が含まれています。いずれの非難も、イエスの存在やその奇跡を否定するものではなく、その動機についての非難だったのです。つまり、イエスは個人的な利益と名声を望んで奇跡を行ったと言っているのです。これらの主張から、福音書が示しているように、イエスの歴史的な存在並びに奇跡を行う人間としての評判をうかがうことができます。従って、こんにち、イエスの生涯に関する証明をしていると言われる資料の中に、悪魔払いや治療を行ったという事実が記されているということになります。

それにもかかわらず、同じ時代に奇跡を起こしたことで知られている他の人物との関係を見ても、イエスは特別です。イエスが行った「奇跡の数」とその「意味」という点で、他の奇跡とは際立った違いがあります。他の人たちが仮に奇跡を行ったことを認めたとしても、イエスの奇跡は全く異なる性格の奇跡でした。「奇跡の数」に関して言うなら、イエス以外の者たちは僅かの奇跡しか行っていません。イエスの場合、マタイによる福音書に19、ルカに20、そしてヨハネに8の奇跡が記されています。それに加えて共観福音書とヨハネには他にも、イエスが行った他の多くの奇跡への言及があります(マルコ1,32-34、3,7-12,6,53-56,ヨハネ20,30参照)。「奇跡の意味」に関してもイエスの奇跡は他のいかなる魔術師の奇跡とも異なっていました。イエスは奇跡の恵みを受けた者が神の恩恵に感謝し、生活を改めることを目的として奇跡を行いました。自分自身に対する賛美や栄光を求めなかったことの証拠として、イエスは奇跡を行うことにあまり乗り気でなかったことをあげることができます。イエスの奇跡には独自の「意味」があったのです。

イエスの奇跡は神の国との関係において理解できます。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12,28)。イエスは神の国を始め、人々が信じるようにと、その奇跡によって呼びかけたのです。この点はイエスの奇跡の基本かつ特徴であって、その奇跡と神の国とは不可分なのです。

イエスの奇跡は、医者のように技術的なものではなく、魔術師のように悪魔や天使の行為でもなく、神の霊の超自然の力によるのです。

従って、イエスが奇跡を行ったのは、神の国がイエスのうちに現存することを確認するため、悪霊の決定的な敗北を知らしめるため、そしてイエスご自身に対する信仰を深めさせるためでした。奇跡は単に驚くべき出来事であるだけはありません。奇跡的な出来事そのものよりも更に深い意味を伴った神自身の行為として考えて始めて説明できるものです。自然界に対する奇跡は、イエスのうちに働く神の力が人間世界のかなたにまで広がること、また神の力が自然を支配することを示す証拠です。治療の奇跡や悪魔払いは魂を脅かす悪から人間を救う力をイエスが示したことの証拠です。これらすべての奇跡は、もう一つの霊的な現実を示しています。すなわち、肉体の治療―つまり病気の隷属からの解放―は、罪の奴隷状態からの解放という霊的治癒を意味します。悪霊を追い払う力は、悪に対するイエスの勝利を示します。パンを増やす奇跡は、聖体の賜物を暗示しています。イエスが鎮めた嵐は、波乱に満ちた困難なときに私たちをキリストへの信仰へと導きます。ラザロの復活は、キリストが復活そのものであり、終りにおける私たちの復活の象徴です。

47.イエスは本当に教会を建てることを望んだのですか?

イエスの教えは、まずもってイスラエルに向けられたものです。イエスは自分に従う人々に次のように語っている通りです。「わたしは、イスラエルの家を失った羊のところにしか遣わされていない」(マルコ15,24)。イエスは活動の最初から皆に対して回心を呼びかけていました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1,15)。しかしながら、その個人的な回心への呼びかけは個人主義者的なものではなく、人々を救うためにおいでになった神が、離散した人々を神の民としてひとつに集めることをつねに目指していたと考えるべきです。

神がその民に対してなされた約束を成就するあたり、イエスが全人類を対象にした「契約」の民として人々を集める意図をもっていたことは明らかです。その証拠は、ペトロを筆頭とする12人の使徒団を設立したことです。「12使徒の名前は次の通りです、最初にペトロと呼ばれるシモンとその兄弟のアンデレ、ゼベダイの子のヤコブとその兄弟のヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子のヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテノのユダである」(マタイ10,1-4;参照マルコ3,13-16;ルカ6,12-16)(質問「12人の使徒とは誰ですか」を参照)。12という数字はイスラエルの12部族と関連しており、神の聖なる民をイエスが呼び集めるというイエスの意図を明らかにしています。彼ら12使徒は新しいエルサレムなの土台なのです(ヨハネの黙示録21,12-14参照)。

さらに、イエスの意図を示すもう一つのしるしは、イエスが最後の晩餐で制定した聖体を12使徒に託したことです(質問「最後の晩餐で何が起きましたか」を参照)。このようにして、イエスは、ご自分が始め終りのときに完成する教会の中で、その頭となる12使徒はしるしとなり道具となる責任を担っていることを、全教会に対してお示しになったのです。たしかに、最後の晩餐の中で秘跡的に先取りされ、また、教会が聖体の秘跡を挙行するたびに現在化される十字架上における自己奉献は、イエスご自身との交わりのうちに一致し、イエスの始めた御業のしるし・道具となる共同体を作り上げます。従って教会は、我々の救いのために行れたキリストの全面的な奉献によって生まれましたが、それは聖体において先取りされ、十字架において完成されました。

12使徒の存在は、教会の存在と使命に対するイエスの意志の最も明白なしるしであり、キリストと教会の間に何らの対立のないことの証拠でもあります。教会を構成する人間に罪があるにも拘わらず、キリストと教会は不可分のものです。

使徒たちは自分たちの使命を、イエスから受け継いだ通りに、永続させなければならないことを自覚していました。継続すべきこととしてイエスから受けたからです。使徒言行録にも記されているとおり、使徒たちは自分たちに託された使命が、自分たちの死後も継続されるように後継者を残すことに心を砕きました。彼らは使徒職を通して正当な牧者の指導のもとに組織化された共同体を残しました。正当な牧者たちはキリストと聖霊との一致のうちに、その共同体を構築し維持します。人々はその交わりの中で御父が与える救いを体験するよう召されています。

聖パウロの手紙の中で、教会を構成する人々について、次のように考えられています。「聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身です」(エフェソの教会への手紙2,19-20)。

イエスが打ち立てたという事実と、その事実においてイエスが自らをお与えになるという現実を無視すれば、イエスに出会うことはできません。イエスとその教会の間には、不可分で深く神秘的な連続性があるのです。そのおかげでキリストは今日もご自分の民の中に現存するのです。

48.聖杯とは何ですか?バレンシアにある聖杯との関係は何ですか?

聖杯(grial)の語源は後期ラテン語のgradalis もしくはgratalisで、それは古典ラテン語のcrater すなわち容器から来ています。中世の騎士道物語によると、それは最後の晩餐でイエスが聖別した御血を入れた容器もしくは杯で、後にアリマテアのヨセフがイエスの遺体を洗った時、体から流れ出た血と水を集めるために用いられた物と言われています。物語によると、その数年の後、ヨセフはその容器をブリテン島にもって行き(質問「アリマテアのヨセフとは誰か」を参照)、そこでこの聖遺物を守る共同体を設立し、それが後にテンプル騎士団と関係してきます。この伝説は、恐らくウエールズのある国で生まれたもので、これは5世紀の外典『ピラト言行録』と呼ばれるラテン語化された古い文献の影響を受けたものと思われます。さらにこの伝説は、アーサー王物語に関係するパルツィファルというケルトの伝説的英雄の物語と共に肉付けされ広まって行きます。この物語は、クレティアン・デ・トロワの作である『聖杯物語』、ヴォルフラム・フォン・エシェンバハの作である『パルツィファル』、トマス・マロリーの作である『アーサー王の死』等の作品を通して広まっていったのです。聖杯は宝石に変わり、一時期、天使に守られ、後に聖杯の王を団長とする聖杯騎士団の保護に託されました。毎年、聖金曜日には天から鳩が舞い降りてきて、宝石の上にホスチアを供えます。こうして、この宝石が持つとされる神秘的な力が新たにされるのです。この宝石は、永遠の若さとあらゆる飢え渇きを満たす力を与えると言われていたのです。時には、宝石のいくつかの刻印は、永遠の至福受けるために、モンサルヴァートにある聖杯の町に呼ばれているのが誰であるかを啓示するとも考えられていたそうです。

この伝説は、その主題として、イエスが最後の晩餐で用いた聖杯と関係しており、それについては、基本的に3つに分類できる古い伝承が存在します。最も古い伝承は7世紀のもので、それによるとアングロ・サクソンのある巡礼者がエルサレムにある聖墳墓教会の中で、イエスが使った聖杯を見て手に触れたと主張するものです。それによると、聖杯は銀で出来ており取手が2ついていたとのことです。2番目の伝承によると、聖杯はジェノバのサン・ロレンツォ教会に保存されているというものです。それは「Sacro catino」と呼ばれ、緑色のクリスタルで皿のような形をしています。12世紀の十字軍によりジェノバに運ばれたものと言われています。3番目の伝承によると、最後の晩餐で用いられた聖杯はバレンシア(スペイン)の司教座聖堂の中に保存されているもので、「Santo Cáliz」として崇敬されています。それは玉髄で作られた暗色の杯で、聖ペトロがローマに持ち込み、その後、彼の後継者が使用していましたが、3世紀に迫害を避けるため、聖ロレンソに託され、スペインのウエスカに移されました。その後、やはりスペインのアラゴン地方を転々とした後、15世紀にバレンシアに移されたと言われています。

49.ポンティオ・ピラトとは誰ですか?

ポンティオ・ピラトは、西暦26年から36年もしくは37年初めまで、ローマ帝国のユダヤ属州で総督を務めた人物です。彼の管轄権はサマリアとイドマヤにも及びました。これ以前の彼の生涯について確かなことは何もわかっていません。彼の職務は、皇帝クラウディウスの以前まで使われていたpraefectus(長官、総督)に該当し、この点はカイサリアで見つかった碑文で確認されています。彼の職務をprocurator(執政官、総督)と記述している古代の作者がいますが、これは時代錯誤です。福音書は一般的に統治者という意味の言葉を使っています。総督として属州の秩序の維持と司法および経済の管理を担当しました。従って、イエスの事件で司法手続きを行ったことで明らかなように、司法制度の前面に立たなければならず、また属州とローマの運営のために貢物や税金を徴収しなければなりませんでした。この最後の職務の執行に関しては直接的な証拠はありませんが、後述するフラウィウス・ヨセフスが記している水道橋を巡る事件は、確かにその職務執行の結果です。更に、西暦29年、30年そして31年にエルサレムで鋳造された硬貨が発見されましたが、それは間違いなくピラトの命令で造られたものです。しかし、とりわけナザレのイエスを処刑した人物として歴史に名を残しました。そして、皮肉なことに、これによりピラトの名前はキリスト教の信条の中で、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ…」と唱えられることになったのです。

フィロンやフラウィウス・ヨセフスが伝えるところによると、ピラトのユダヤ人との関係は決して良好なものではなかったようです。ヨセフスの見解では、ピラトの時代、パレスチナは非常に混乱していて、フィロンの語るところによれば総督は「汚職体質、暴力、窃盗、強盗、権力の乱用、しばしば裁判なしの囚人の処刑、限りない残忍さ」(ガイウス302)で特徴づけられるようです。これらの評価には、この二著者の独自の意図と理解が影響を与えているでしょうが、ピラトの残酷さは、ルカ13,1が示唆するように(総督がガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた出来事が述べられている箇所)、疑いの余地はないようです。ヨセフスとフィロンは、ピラトがエルサレムに皇帝ティベリウスを称えた徽章をもちこんだことも語っていますが、このことがエルサレムで大きな混乱を招き、徽章はカイサリアまで持ち出されなければならなくなったのでした。また、ヨセフスは、ピラトが水道橋の建設に際してユダヤ人の神殿から拠出させたと語っています。その決定は流血の事態となる反乱を引き起こしました。ある人たちは、これがルカ13,1に記されている事件であると考えています。ヨセフスが語る最後のエピソードは西暦35年ごろに起きたガリジムの丘でのサマリア人への暴力的な弾圧です。その結果、サマリア人はシリアの総督のヴィテリオに使節を送ります。そしてヴィテリオはピラトの任務を解きました。ピラトは事態の釈明のためにローマに召還されましたが、ローマに着いたときティベリウス帝はすでに死去していたのです。エウゼビウスが集めた一つの言い伝えによると、ピラトはカリグラ帝の時代に不興を買い自殺したのでした。

後代には、ピラトの人物に関する様々な伝説が現われました。ティベルもしくはヴィエンヌ(フランス)で恐ろしい最後を迎えたという伝説や、妻プロクラと共にキリスト教に改心したという伝説(特に中世に『ニコデモの福音書』の一部をなす『ピラト言行録』)もあります。このプロクラはイエスを弁護したとしてギリシャ正教教会で聖人として崇められています(参照:マタイ27,19)。エチオピアとコプトの教会ではピラト自身が聖人に加えられています。しかし、キリスト教がローマ帝国内で道を開く上で困難に直面していた時期にローマの総督の罪を軽減しようとする意図が見られるこれらの伝説とは別にして、我々が福音書を通して知るピラトは無気力な人物で、真実と向き合おうとせず、群衆を喜ばせることを好んでいます。

しかしながら、信仰宣言の中でのピラトの存在は極めて重要です。キリスト教は歴史的な宗教であって、倫理的なプログラムでも、哲学でもないことを思い起こさせてくれるからです。贖いはこの世界の具体的な場所、すなわちパレスチナで、歴史の具体的な時期に、すなわちピラトがユダヤの総督であった時に実現したのです。

50.イエスはいかなる政治的な考え方をもっていましたか?

イエスは政治的な暴動を扇動したとしてローマの統治者へ告発されました(参照ルカ23,21)。総督ピラトは、熟考する一方で、次の理由で死刑に処するようにとの圧力を受けました。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない、王と自称する者は皆、皇帝に背いています」(ヨハネ19,12)。それゆえ、十字架刑の罪状札には、処刑の理由として「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれたのです。

イエスは正義、愛、平和の国である神の国を宣べ伝えましたが、告発者たちはそれを口実として、イエスの教えはローマにとって問題を引き起こすことになると主張しました。しかし、イエスは直接的に政治には参加せず、また当時のガリラヤやユダヤに住む人々の政治的な意見や行動に同調せず、また、いかなる党派や体制にも加担しませんでした。

このことは、イエスが当時の社会生活にかかわりのある重要な問題に注意を払わなかったということではありません。実際、イエスは病人、貧しい人、困窮者などをなおざりにしませんでした。正義を説き、なかんずく、わけ隔てのない隣人への愛を説きました。

イエスが過越祭に参列するためにエルサレムに入ったとき、群衆はイエスをメシアとして歓呼の声を上げ、その歩調に合わせて叫びました。「ダビデの子ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(マタイ21,9)。それにもかかわらず、イエスは人々がメシアに描いた政治的な期待には応えませんでした。直面している状況を武力で変えるために来た戦闘指導者でもなく、ローマの権力に対して蜂起をうながす革命家でもなかったのです。

イエスのメシアについての考えは、イザヤが預言した苦しむ僕の賛歌(イザヤ52,13-53,12)に照らして理解されるもので、多くの人の贖いのため自らを死に差し出すというものだったのです。聖霊に導かれた初期のキリスト教徒は、起こった事柄を熟考するに従って、はっきりとそのことを理解したのでした。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった』。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(1ペロト2,21-25)。

近年出されているイエス伝の中には、当時の政治情勢に対するイエスの態度を理解する上で、彼が選んだ12使徒の多様性に注目しているものがあります。とりわけ、熱心党と呼ばれるシモン(参照ルカ6,15)は常に引き合いに出されます。そのあだ名が示すように、このシモンは急進的なナショナリストであったとされ、ローマからのユダヤの独立のために戦っていたと考えられるのです。また、この地域の言語に詳しい研究者の中には、イスカリオテのユダに関して、そのあだ名iskariotはラテン語の「暗殺者」を意味するsicariusがギリシャ語に広まった言葉ではないかと指摘し、これはユダがユダヤ・ナショナリズムの最も過激で暴力的なグループの支持者であったことを示しているのではないかと考えています。その一方で、マタイはローマ帝国のための徴税人(publicanus)で、彼はローマ帝国の協力者とみなされていました。また、フィリポに関しては、その名前はガリラヤ地方に定着したヘレニズム文化圏の出身者であることを示しています。

これらの資料には、まだ議論の余地が残っているでしょうし、また、12使徒のある人物を、後に力を持つことになるある政治思想と結び付けることもできるでしょう。いずれにしても12使徒たちは、それぞれ独自の考えと態度を持つ多様な人びとであったことには変わりなく、そのような政治的な考えや社会的な地位を超越するイエスご自身の仕事に呼ばれたことを見事に示していると言えるでしょう。

51.コンスタンティヌスとは誰ですか?

コンスタンティヌス一世もしくはコンスタンティヌス大帝として知られているフラウィウス・ウァレリウス・アウレリウス・コンスタンティヌス(272-337)は西暦306年から337年の間、ローマ帝国の皇帝でした。彼は歴史上最初のキリスト教徒の皇帝として歴史に名を連ねています。

彼の父コンスタンティウス・クロルスは、もともとギリシャの士官でしたが、305年に西方の皇帝に擁立されました(同じ年、東方ではガレリウスが皇帝に抜擢されています)。このコンスタンティウス・クロルスと、後に聖人になったそのヘレナとの間に、コンスタンティヌスは生まれました。コンスタンティウス・クロルスが306年にブリタニアで没すると、地元の軍隊はコンスタンティヌスを皇帝に擁立しました。当時は政治的に難しい状況下にありました。コンスタンティヌス帝は、イタリア・北アフリカを支配していた元皇帝マクシミアヌス及びその息子マクセンティウスと緊張関係にあったのです。コンスタンティヌスは310年にマクシミアヌスを打ち破り、そしてマクセンティウスを312年の10月28日、ミルウィウス橋の戦いで打ち破りました。伝説の語るところによると、コンスタンティヌスはこの戦闘に入る前に幻を見ました。異教徒として礼拝していた太陽を見つめている時、そこに十字架が見えたというのです。そして、自軍の兵士たちの盾に、キリストを表わす組み合わせ文字(キリストのギリシャ語での名前の最初の2文字を重ねたモノグラム)を掲げるように命じました。コンスタンティヌスは異教徒の儀式をおこない続けたのですが、この勝利以来キリスト教徒に対して好意的になりました。東方皇帝のリキニウスと連名で信仰の自由を保障するいわゆる「ミラノ勅令」(次の質問を参照)を発布しました。その後両皇帝は対立し324年にコンスタンティヌスはリキニウスを打倒し帝国の唯一の皇帝になりました。

コンスタンティヌスは、行政、軍事、経済面で多くの改革を実施しましたが、特に際立っていたのは宗教政策面での措置で、まず最初に帝国のキリスト教化に向けられました。コンスタンティヌスは教会の統一を維持するのに適した組織作りを推進しましたが、それは国家の統一を維持しその君主形態を合法化する方法としての行動でした。ただし、個人としての宗教的動機を排除することはできないでしょう。教会の行政面での措置と同時に、異端や分裂に対する方策も取りました。教会の統一を守るために、北アフリカのドナトゥス派によって引き起こされた分裂と戦い、またアリウス派により引き起こされた三位一体論争を解決するためにニケア公会議(質問;「ニケア公会議で何が起きましたか」を参照)を開催しました。330年にローマ帝国の首都をローマからビザンティウムに遷し、そこをコンスタンティノープルと命名します。この遷都は、キリスト教の中心となるべき首都の建設を望んだものでしたが、一方では、それまでの伝統から離れてしまう結果となりました。コンスタンティヌスには洗礼の機会はしばしばあったはずですが、実際に洗礼を受けたのは死の直前でした。洗礼を司式したのは、アリウス派の司教・ニコメディアのエウセビウスでした。

コンスタンティヌスの統治には、彼が生きた時代に一般的であった欠点(たとえば、気まぐれで暴力的だといった性格など)があったことは否定でいませんが、他方、教会に自由を与え教会の一致に貢献したことも否定できません。一方、教会の一致を図るためにコンスタンティヌスが最終的に聖書に含まれる書物の数を決定したということは歴史的に定かではありません。聖書の正典の決定までは長い過程があり、コンスタンティヌスより後の時代に終ることになります。ただし、4つの福音書については、コンスタンティヌスよりずっと以前から、教会は正典として認めていました。福音書と名付けられた他の文書が異端として正典から排除されたのは、コンスタンティヌスの時代よりも数十年以前のことだったのです。

52.ミラノ勅令

四世紀の初め、再びキリスト教徒は激しく迫害されました。皇帝ディオクレティアヌスはガレリウスと共に303年に「大迫害」として知られている弾圧を行います。それは、キリスト教が広がることで国家の統一が危機にさらされると考えた皇帝が、その統一を回復する目的で行ったものでした。この弾圧で命じられた事柄は、たとえば:キリスト教の教会を取り壊すこと、聖書を焼き捨てること、教会の権威者たちを殺害すること、キリスト教徒を公職から追放し市民権を剥奪すること、神々に生贄を捧げなければ死刑に処すること、などでした。キリスト教徒を根こそぎにするための方策が巧くいかなかったので、ガレリウスは寛容と政治的な都合を考えて、311年4月30日に寛容令を発布します。これにより、キリスト教に対する弾圧は終了し、キリスト教徒の法的な存在が認知され、集会を開く自由や教会を建設する自由が認められました。

そうこうしているうちに、コンスタンティヌスは西方の皇帝に選ばれました。312年にマクセンティウスを打ち破り、翌年2月にミラノで東方皇帝のリキニウスと会見しました。二人は、様々な事柄を協議しますが、その中で、キリスト教徒の取り扱いについても話し合いました。そして、キリスト教に有利な法令を発布することで合意しました。この会談の結果は「ミラノ勅令」として知られるものですが、二人の皇帝がミラノで発布した勅令は存在しなかったと考えられています。ミラノで合意した内容は、リキニウスが帝国の東方で発布した勅令で知ることが出来ます。我々が手にすることが出来る文献は、皇帝が313年にローマ帝国属州の総督宛に送った書簡です。これについて、カイサリアのエウセビウス(『古代教会史』10,5)とラクタンティウス(『迫害者たちの死』48)が、それぞれ取り上げています。この勅令の最初の部分では、全市民の信仰の自由を規定し、結果としてキリスト教徒もこの自由を享受する権利が明確に認められています。その勅令は、キリスト教のみならず、他のいかなる宗教をも実践することを認めました。勅令の二番目の部分では、かつてキリスト教徒の集会所や礼拝所であった場所、および、迫害中にローマ帝国の行政機関により没収され個人に売却されたキリスト教徒の他の資産を返還することが規定されました。

勅令はキリスト教に特別な地位を与えるどころか、あらゆる宗教の好意を得ようとしていたように思えます。コンスタンティヌスはキリスト教を優遇しながらも、一時期「不敗の太陽神」信仰を続けていました。いずれにしても、異教信仰は帝国の正式な宗教ではなくなり、勅令はキリスト教徒が他の市民と同等の権利を享受できることを認めました。この時以降、教会は合法的な宗教となり、帝国からの法的な承認を得て、キリスト教興隆の道が開かれたのです。

53.ニケア公会議で何が起こりましたか?

第1ニケアア公会議は最初の公会議です。すなわちキリスト教徒が存在するあらゆる地域の司教たちが一同に会したという意味で普遍的な性格をもつ会議でした。この公会議は、教会が安定した平和を享受することができ、公に集会を開くことが出来ようになった状況下で開催されました。会議は325年5月20日より7月25日の期間で開催されました。その会議には、つい最近まで行われていた迫害の中で信仰を貫いたがために刑に処せられ体に傷を負った司教たちも参加していました。

その会議が行われた時にはまだ洗礼を受けていなかった皇帝コンスタンティヌスは司教たちの参加を容易にするために、帝国の駅舎を彼らが旅行に使用できるように開放し、また、ニコメディアの皇帝住居に近かったビティニアのニケアで司教たちをもてなしました。324年にリキニウスに戦いで勝ち帝国の再統一を図ったばかりの皇帝にとって、この会議は非常に時宜を得ていると思えたのでした。また、同時に、イエス・キリストの真の神性を否定する司祭アリウスにより揺れていたキリスト教会の統一を図りたいと考えたのでした。318年以来、アレクサンドリアの司教アレクサンダーと対立していたアリウスは、エジプトの全司教による教会会議において破門されていました。その後アリウスはアレクサンドリアを抜け出し、友人であったニコメディアの司教エウセビオスのもとに逃れました。

公会議の教父の中にその当時の最も重要な聖職者も含まれていました。公会議の司会を務めたと思われるコルドバの司教オージオも参加していました。他の出席者の中には、当時は助祭であったアタナシウスを伴ったアレクサンドリアの司教アレクサンダー、アンカラの司教マルケロス、エルサレムの司教マカリオス、カッパドキアのカイサリアの司教レオンティウス、アンティオキアの司教エウスタティオス等がいて、その他に高齢のために出席できなかったローマの司教の代理を務めた数名の司祭がいました。更に、アリウスの友人であったカイサリアのエウセビオスやニコメディアのエウセビオス、その他何人かのアリウス支持者も出席していました。全部で約300人もの司教が参加していました。

皇帝コンスタンティヌスの好意をあてにしたアリウスの支持者たちは、公会議はただちに自分たちの主張を受け入れるだろうと考えていました。しかしながら、ニコメディアのエウセビオスが、キリストは高く傑出しているが人間以上ではなくまた神性がないと述べて口火を切ったとき、出席者の大多数はただちにその主張は使徒たちから受け継いだ信仰を裏切るものであると気づきました。重大な混乱を避けるため、公会議の教父たちは、カイサリア教会の洗礼用信条をもとに、信条を作成しました。その信条は、キリスト教の最初の時代から受け入れられ認められた信仰の真の宣言を総合的かつ明白に反映したものです。その信条では、イエス・キリストは「父と同じ本質、神よりの神、光よりの光、真の神からの真の神、造られずして生まれた、父と同一実体である」と謳われています。二人の司教を除く、すべての公会議の教父たちはこの信条をニケア信条として325年6月19日に承認しました。

この根本的な問題に加えて、ニケア公会議では、復活祭の日を、ローマの教会と多くの教会の慣習に従い、春の最初の満月の後の最初の日曜日とすることを決定しました。また教会内部の運営に関するさほど重要でない規律上の問題も議論されました。

最も重要な議題である、アリウス派異端の危機に関しては、しばらくしてコンスタンティヌスの支援をあてにしたニコメディアのエウセビウスは司教座に帰り着くことが出来、皇帝自身もコンスタンティノープルの司教にアリウスを教会との交わりに復帰させるように命じました。一方、アレクサンダーの死によりアタナシオスはアレクサンドリアの司教となりました。4世紀における教会の中で最も偉大な人物の一人であったアタナシオスは、極めて優れた見識をもってニケア信条を擁護しましたが、まさにそのために皇帝により国外へ追放されてしまいました。

アリウス派の考えに近い歴史家のカイサリアのエウセビウスは、その著書の中でニケア公会議でのコンスタンティヌス帝の影響をいささか誇張して記述しています。もしこの文献のみを手がかりにするなら、皇帝は会議の最初の挨拶の言葉を述べるのみならず公会議に出席した司教たちに対して教義上の問題を提起し対立する人々を和解させ、一致を回復させる主役を演じたことになります。それは事実を歪めた記録です。

入手可能なあらゆる諸文献を調べると、確かにコンスタンティヌスはニケア公会議の開催を容易にし、実際その会議に影響を与え、そしてあらゆる協力をしたと言えるでしょう。しかしながら、文献を更に深く調べると皇帝はニケア信徒の作成に何ら影響を与えていないことが分かります。というのも、そこで議論された問題で采配をふる神学的知識を持ち合わせていなかったからです。特に公会議で承認された信条は、アリウス派に傾いていた皇帝自身の考え方にはそぐわないものでした。皇帝は、イエス・キリストを神ではなく卓越した人物であると考えていたのです。

54.ユダの福音書は何を語っていますか?

教父や古代の教会著述家たちが言及している種々の外典の中に『ユダの福音書』と呼ばれる文献があります。その外典に関して聖イレネオは『異端論駁』(1,31,1)の中で次のように書いています。「他の人々は、カインは天上の力で自己の存在を獲得したと主張している。また、エサウ、コラ、ソドムの者たち、またこれらに類する者たちが互いに関係し合うことを認めている。そのため、彼らの誰も危害を受けることはなかったものの、創造主より責め立てられたのだと、考えられている。知恵は、自らに属していることを、彼らから自分自身へと移す習性を持っていた。また彼らは、裏切り者のユダはこれらのことを熟知しており、真実を知っている唯一の者として、ユダは裏切りの神秘を実行したのであると言っている。彼のせいで、地上と天上のすべてのことは溶解したと、彼らは言っている。これらのことは、ユダの福音書と名付けられている虚構の物語りの中で記されていることである」。ユダに関しては、聖エピファニウスとキュロスのテオドレトスもまた言及しています。

イレネオがこの論文を書いたのは180年です。そうすれば、『ユダの福音書』はその前に書かれていることになります。恐らく、130~170年の間にギリシャ語で書かれたと考えられています。カインに属するグループについては、イレネオの記録以外には知られていません。グノーシス主義とは独立したグループであったのか、あるいは、グノーシス主義に関わるものであったのかも分かっていません。

ごく最近、『ユダの福音書』を含むコプト語で書かれた4世紀の写本がエジプトで発見されたことが報道されました。その写本には、他にもグノーシス主義の三つの文献が含まれています。この新たな発見により、『ユダの福音書』には、イエスが「過越祭の3日前に」イスカリオテのユダに与えた怪しげな啓示について記述されていることが分かります。『マリアの福音書』(質問30を参照)の場合のように、何ら歴史的に根拠のない事柄を扱っており、この宗派に入信したばかりの者たちに奥義を伝えるためにユダの名前を使っているのです。奇跡を起こしたり、自らを子供の姿で弟子たちに示したりしながら、地上での使命を遂行するイエスについて述べた後に、イエスと弟子たちの対話について語っています。イエスは、弟子たちがパンに感謝を捧げることを笑い、弟子たちはそれに腹を立てます。ただユダだけは、イエスの望みに適った反応を示しました。そして、イエスに言います。「私はあなたが誰で、どこから来られたか知っています。あなたはバルベロの不死の王国から来られ、私には、あなたを送った方の名前を口にする資格はありません」(バルベロはセティアノ型のグノーシス的宇宙論における神の最初の発散です)。されに、弟子たちとイエスとのやり取りや、ユダとイエスとの対話などが続きますが、そこでは複雑な宇宙論が取り上げられています。この書物の終りの部分では、イエスがユダに次のごとく語ったと述べられています。「お前はすべての者たちを超えている。そして、お前は私が身にまとっているこの人間をいけにえとして捧げるであろう」。書物は、最後にユダは律法学者たちから金を受け取り、彼らにイエスを売り渡したと記しています。

この新たな文献は2世紀のグノーシス主義に関する知識を広げる上で価値がありますが、歴史的な観点に立つと、福音書を通して知られているイエスとその弟子たちに関して、新たな知識を提供するものではありません。過去に発見された他の写本同様、この文献も、イレネオをはじめエピファニウスや他の古代の著述家がグノーシス主義に関して残した記録の信憑性を裏付けています。

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