あなたもできる

 困難が襲ってくるかもしれないから、予め言っておきたい。疲労や落胆を狙ってやってくる誘惑である。

 あなたの過去の生活は、方向も目的も魅力もなかったが、神の光とあなたの献身のおかげで方向が定まり喜びに満たされた。このことはまだ記憶に新しいのではないか。

 それをまた元に戻すような馬鹿な真似をしてはならない。

 理由はともあれ限界だと分かったときは、主にお話しして、すべてをお任せしなさい。「主よ、あなたを信頼し、あなたにすべてを委ねます。ただし、私の弱さを助けてくださらなければなりません」と。

 信頼を込めて申し上げなさい。「イエスよ、私は汚い布(ぬの)切(き)れです。私の生き方はまことに嘆かわしく、神の子と呼ばれる資格がありません」。幾度もこう繰り返しなさい。

 「恐れるな」、あるいは「立って歩きなさい」という、主の声が間もなく聞こえてくるだろう。

 主が今まで以上に多くを要求されるときは直ぐに分かるものです。まだ決心がつきかねているようだったが、あなたはこう話してくれた。

 唯一の望みは神とひとつになることです、念を押していたあなたなのに、なぜ抵抗するのか? 私はこれだけを言っておいた。

「毎日、わずかずつ自らに死ぬ」というあなたの決心を、是非とも果たしてほしい。

 喜びに溢れ、超自然的・人間的に楽観しているとは言え、身体の疲れや苦しさ、心があるから流れ出る涙、内的生活や使徒職の種々の困難が消えてしまうわけではない。

 〈完全な神であり完全な人〉である御方は、天国のすべての幸せを持っておられたが、労苦と疲労、涙と苦しみをすすんで経験された。実は、超自然的になろうとすれば、すこぶる人間的にならなければならないことを、私たちに理解させるためだったのだ。

 イエスはもっと祈れと要求される。この点はあなたにも明らかである。それにもかかわらず、あなたの応じ方のなんとけちくさいことか。何をするにも骨が折れる。まるで歩く練習を面倒がる子供のようだ。 ところであなたの場合は、怠け心だけでなく、物惜しみや恐れの問題もある。

 重ねて申し上げなさい。「イエスよ、あなたの要求と私自身の高貴な野心のどちらを選ぶべきかについて、万一心に迷いが生じたときのため、今から申し上げます。たとえ犠牲を要することであっても、あなたの道を選びます。どうか私を見放さないでください」。

 神との一致を求め、確かな徳である希望で満たされなさい。たとえ闇夜であっても、イエスは慈しみ深い光を注いで、あなたを明るく照らしてくださるだろう。

 あなたは次のように祈った。「惨めさがのしかかってくるが、私は神の子であるから屈伏しない。償い、そして愛するのだ」。そして「聖パウロにあやかり、主に信頼を置く者が見放されることはないと確信し、自分の弱さを活用したいと思います」と言い添えた。

 私は、そのまま続けなさい、と言ってあげた。神の恩恵を受ければ、惨めさと卑しさは克服できるからである。

 効果的な決心を立てるためや、信じますと言ったり、希望しますと言ったり、愛しますと言うために、具合の悪い時などあり得ない。

 御父と御子と聖霊の称(たた)え方を身につけなさい。至聖三位一体への特別な信心を持ちなさい。「父なる神を信じ、子なる神を信じ、聖霊なる神を信じます。父なる神に希望し、子なる神に希望し、聖霊なる神に希望します。父なる神を愛し、子なる神を愛し、聖霊なる神を愛します。至福なる三位一体の神を信じ、希望し、愛します」。

 霊魂の超自然的な訓練として、この信心を実行する必要がある。必ずしも声に出せというわけではないが、少なくとも心の中で実行すべき信心である。

 超自然の実が豊かに結ぶ生き方を望むなら、「彼らは皆、…心を合わせて熱心に祈っていた」という使徒言行録の勧めに従わなければならない。これこそ聖霊がお与えになるただ一つの手順・方法・手段である。

 祈りがなければ、何もできない。

私の主イエスは、善良な人々全員の心をすべて合わせたよりも更に優しい心を持っておられる。善良な(普通の善人)なら、ある人が見返りや代償を要求せず(純粋な愛で)自分を愛してくれ、またその人の唯一の望みは愛する人が自分の愛にわずかでも反対しないことであると分かれば、時を置かずその無私の愛に応えることだろう。

 愛される側が何でもできる力強い御方なら、人間の(惨めさだらけとは言え)忠実な愛に応えてくださるだけでなく、ご自分を愛する人に必要な限りの超自然的美しさと知識と力をお与えになるだろう。主を礼拝する哀れな心をご覧になっても、イエスの御目が汚れないためである。

 子よ、愛しなさい。愛し、そして希望しなさい。

 犠牲を払って愛の種を蒔けば、必ず愛を収穫できるだろう。

 子よ、すべての人が主を愛するように、と熱い望みで心が燃え上がらないのだろうか。

 幼子イエス、少年イエス。主よ、私は好んでこのようなあなたを眺めます。私がもっと大胆になれるからです。寄方(よるべ)なく幼いあなたを眺めるのが好きなのです。あなたには私の助けが必要であると考えると、嬉しくなるからです。

 聖堂に入ったとき、― 子供に戻った私は ― いつも主に、あなたを他の誰にも増してお愛ししております、申し上げることにしている。

 信心を込めて頻繁にご聖体を拝領する人は、まず自分の精神に、そして行いに、素晴らしい効き目があるのをみて驚くことだろう。

 パンを増やす奇跡がいかに素晴らしいとは言え、一片のパンにあの人たちがあれほど夢中になって喝采したのであれば、たくさんの賜物、中でもご聖体において余すところなく御自らを捧げてくださった御方に対して、私たちはどうすればよいのでしょうか。

 良い子よ、この世の恋人たちは花に、手紙に、愛する人の思い出の品に、接吻するだろう。

それにもかかわらず、常に傍に居てくださる御方を忘れるようなことがあってよいものだろうか。いつでも食物としていただくことのできる御方を忘れてしまってよいというのだろうか。

 何度も聖堂に立ち寄って、「あなたの腕に私自身を委ねます」とイエスに申し上げなさい。

 あなたの持っているもの、つまりあなたの惨めさを、主の足元に差し出しなさい。

 そうすれば、たとえ無数の問題を引きずっているとしても、あなたが平和を失って私を悲しませることはないだろう。

 詩編作者と一緒に確信して祈りなさい。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。

 年齢も徳も円熟の域に達しているはずであり、頼りにできるのは神のみであることも十分知っているはずなのに、誘惑を受け、罪を犯したとしても、いわゆる〈真昼の悪魔〉の企(たくら)みに負けないように主が守ってくださると保証できる。

 嫌々何かをしてあげて感謝されるとでも思っているのだろうか。分かりきったことだが、そんなことはない。時には、何もしてもらわないほうが良かったとまで思われるだろう。

 仏頂面で神に仕えることができるとでも思っているのだろうか。答は「ノー」である。たとえ惨めさだらけであっても、神の助けを得てそれらを取り除いていくのだから、喜び勇んで神に仕えなければならない。

 疑いや誘惑が優雅な顔をしてあなたを襲う。悪魔はあなたを敵と見做しているらしい。また、神があなたに恩恵をお与えにならないはずはないというあなたの話を聞くと、私は嬉しくなる。戦いを続けなさい。

 個人的な問題で苦しむ人の大半は、利己主義に負けて自分のことしか考えないから〈苦しむ〉。

 すべては平穏なようだ。しかし、神の敵は眠らない。

 イエスの聖心も見張りをしてくださっている。これこそ、私の希望である。

 聖性とは戦うことであり、自分に欠点があることを認め、それを避けるために英雄的な努力をすることである。

 繰り返すが、聖性とは、私たちの欠点を克服する努力のことである。しかし、死ぬときにも欠点は残っているだろう。前にも言ったように、そうでないと私たちは高慢になってしまうからである。

 主よ、感謝いたします。あなたは誘惑をお許しになるとき、私たちが勝利者になれるよう、美しく力強い恩恵を与えてくださいます。私たちが謙遜になるために誘惑をお許しになるあなたに感謝いたします。

 わが主よ、私を置き去りにしないでください。あなたの哀れな子である私が、底なしの淵に落ち込んでしまうことをご存じないのでしょうか。

わが母よ、私もあなたの子なのです。

 神の助けがなければ、清い生活を続けることはできない。私たちが謙遜になって、私たちの母であり主の御母である方の執り成しによって神の助けを願うよう、主は望んでおられる。

 聖母とふたりだけの孤独の中にいる今、心の中ですぐに申し上げなさい。わが母よ、私の哀れな心は時々反抗しますが、もし助けてくだされば…。こうお願いすれば、心を清く保ち、神のお呼びになった道を歩み続けられるよう、聖母が助けてくださるだろう。神のみ旨を常に容易に果たせるよう、処女マリアが助けの手を差し伸べてくださるのである。

 聖なる純潔を保ち、清い生活を送るには、日々の犠牲を愛し、実行しなければならない。

 哀れな肉体に時々激しく襲いかかってくる棘(とげ)を感じたなら、十字架に接吻しなさい。たとえ愛がこもっていないようでも、固い意志があればよいから、幾度でも十字架に接吻しなさい。

 毎日、主の前に立ち、福音書に出てくるあの助けを必要とする人のように精一杯の心を込めて、ゆっくり申し上げなさい。「主よ、見えるようになりたいのです」。み旨が見えますように、あなたへの忠実を保つため戦えますように。

 わが神よ、あなたは良い羊飼いであり、私たちはあなたの羊の群であることを知っていれば、堅忍も至って容易なことです。

 良い羊飼いがご自分の羊一頭一頭のために全生命を捧げてくださることは明らかだからです。

今日、あなたは祈りの中で、聖人になる決意を固めた。さらにあなたは「この決心を実現させるつもりです。しかしこう言うのは、自信があるからではなく、あなたが必ず助けてくださると確信しているからです」と付け加えた。私にはその気持ちがよく分かる。

 恩恵の助けを頼りにせず、自分の力だけに頼るなら、役に立つことは何もできない。神に繋がる道を断ち切ることになるからである。

 逆に、恩恵があれば、すべてが可能である。

 キリストに学び、その生活を模範にしたいと思うのか。福音書を開いて、神と人々、神とあなたとの語り合いに耳を傾けなさい。

 イエスは何が適切かをよくご存じである。だから、私はそのみ旨を愛しており、常に愛するつもりでいる。主こそ〈人形〉を操る御方であり、たとえ神を信じない人々が必死になって邪魔をしたところで、私たちの目的に達するための手段であれば、お願いするものすべてをお与えになるだろう。

 本物の信仰かどうかは、謙遜か否かによって明らかになる。

 あのかわいそうな女性は、「『(イエスの)服に触れさえすれば治してもらえる』と心に言い聞かせていた」。

 なんと謙遜な人だろう。これこそ彼女の信仰の実り・信仰のしるしである。

 神があなたに重荷をお与えになったのなら、力も下さるだろう。

 良心の糾明をするときには、聖霊に助けを願いなさい。あなたがもっと深く神を知り、自分自身を知って、日々の改心を実現させるためである。

 霊的指導の時には、あなたがどの程度まで神に栄光を帰することができ、またそうしたいと望んでいるかを確かめるため、超自然的な感覚をもって聖なる恥知らずとなった霊的指導者が、あなたの心をかき混ぜるだろう。それに抵抗してはならない。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。どうしてそんな奇跡が起こるのでしょうか。マリアは天使にこう尋ねたが、それは彼女の誠実な心の現れである。

 聖なる処女を見て、私は一つの明らかな規準を確認できた。平安を保ち、平和な生活を送りたければ、神に対して、霊魂を導いてくれる人や自分自身に対して、徹底的に誠実でなければならないということである。

 優しい母親が子供の指に針を当てて刺さった棘を抜くとき、愚かな子なら泣き喚き、足を踏み鳴らす。賢い子なら、肉体は弱いので目には涙をためながらも、いっそうひどくなるのを避けるために少々の痛みにも耐えて、感謝の眼差しで優しい母親を見つめる。

 イエスよ、私が賢い子でありますように。

 子よ、かわいそうなロバよ、愛情いっぱいの主が、肥やしにまみれ、黒く汚れたあなたの背をきれいにし、まばゆいばかりの宝石で飾った繻子(しゅす)の鞍(くら)をお付けになるが、そのとき忘れてはならないことがある。哀れなロバよ、あなたはこの美しい荷物を自分の過ちで地面に投げ出してしまうことは〈できる〉が、あなたの力だけで再びそれを背に乗せることは〈できない〉のである。

 神との父子関係に憩いを求めなさい。神は優しさと限りない愛に溢れた父、あなたの父である。

 父よ、何度もお呼びしなさい。そして、そっと申し上げなさい。「お愛ししております、本当に心からお愛ししております、あなたの子としての誇りと力を感じています」と。

 喜びとは、神の子であることを自覚したとき必ず湧いてくるもの、私たちを受け入れ、助け、赦す、父なる神に特別に愛されていることを自覚すれば、当然もつことができるものである。

 これを決して忘れないように。たとえすべてが駄目になったように思えるときも、本当は何も駄目になっていないのである。神が戦いに敗れることはあり得ないのだから。

 感謝の心を神に表すのに最も良い方法は、神の子の身分を熱烈に愛することである。

 あなたは王子であることを突然知らされた貧者のようなものだ。だから、この世でたった一つ関心があるのは父なる神の栄光であり、すべての栄光を神に帰することである。

 幼い友よ、主に申し上げなさい。「イエスよ、私があなたを愛しており、あなたが私を愛してくださっていることが分かっていますから、何が起こっても心配しません。すべては上手くいくのです」。

 あなたは「聖母にたくさんのことをお願いしました」と言った後で、すぐに言い直した。「違います。聖母にたくさんのことをお話ししたのです」。

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」。主と一緒であれば、失敗する恐れはない。そしてこの確信から聖なる〈優越感〉が生まれ、勝利を得た人の気持ちになって事業に立ち向かっていける。神が力をお与えになるからである。

 画家はキャンバスを前にして自らを凌駕(りょうが)せんという心意気をもって叫んだ。「主よ、あなたのために、三十八の心と、あなたへの愛を歌う三十八の天使、天に三十八の素晴らしい縫(ぬ)い箔(はく)、あなたのマントに三十八の太陽、三十八の火と三十八の愛、三十八の狂気と三十八の喜びを描きます」と。

 そう言った後で、あなたは謙遜に認めたのだった。「これはすべて私の想像と望みに過ぎません。現実には、満足していただくというより、目の犠牲にしかならない三十八の平凡な絵図(えず)を描くに過ぎません」と。

「天使よ、私たちに従いなさい」と要求する権利はないが、聖なる天使が私たちの願いを必ず聞き届けてくれることは絶対に確信できる。

 神の導きに任せなさい。神は、無数の逆境、そして時には怠惰な態度さえ活用して、あなたを〈ご自分の道〉に導かれる。あなたの事業を実現なさるのは神であることをお見せになるためである。

 恐れずに願いなさい。福音書が語るパンを増やす場面を思い出すのだ。なんと寛大に使徒たちに報われることか。いくつのパンがあるのか? そして主は、六つ、百、千と、お与えになる。何故だろうか。

 なぜなら、私たちが必要とすることを神の英知で見通し、その全能によって私たちの望み以上のことを実現させることがおできになり、事実そうしてくださるからである。

 主は、私たちの貧弱な考え以上のことをご覧になる。神は限りなく寛大な御方なのである。

 神のために働くのなら、私が教えた〈優越感〉を持っていなければならない。

 「それは高慢な心の現れではないのですか」と、あなたは尋ねる。絶対に高慢ではない。それどころか、それは謙遜、すなわち次のような告白をさせる謙遜の結果である。主よ、あなたは存在そのもの、私は無そのものです。あなたは権能、力、愛、栄光、英知、支配権、尊厳など、すべての完全性を備えた御方です。あなたに一致していれば、父親の力強い腕の中や母親の優しい膝(ひざ)に抱かれた子のように、神の熱と英知の光を感じ、神の力が私の血液中を流れるのが感じられるでしょう。

 神の現存を保つなら、耳をつんざくような嵐が襲ってきても、見渡す限り常に太陽が輝いていることだろう。そして、荒れ狂った破壊的な波の下でも、心は平安と落ち着きに満たされていることだろう。

 神の子にとっては、毎日が自らを新たにする機会である。すなわち、恩恵に支えられて道を踏破し、愛なる御方のもとへ必ず到着できるとの確信を持って、日々改心するのである。

 だから、始めては、また始めるという努力がある限り、あなたは良い歩みを続けていることになる。勝利を得ようという心意気を持ち、神の助けを得て戦うなら、必ず打ち勝つだろう。克服できない困難などないのである。

 ベツレヘムに行き、幼子に近寄り、踊ってさしあげ、たくさんの優しいことを申し上げ、胸に抱きしめなさい。

 子供じみたことでなく愛について話している。ところで、愛は行いに表さなければならない。あなたは心の奥で幼子をしっかり抱きしめることができるのである。

 イエスに私たちが子供であることを知っていただこう。子供たち、それも幼くて単純な子供なら、階段を一段上がるのにどれほど苦労することだろう。階段を前にして時間の浪費をしているとしか見えない。 やっとのことで一段上がって、また次の段を目指す。手足は勿論(もちろん)のこと、全身の力を振り絞って、再び勝利を得た。もう一段進んだのである。そして、また始める。大した努力だ。しかし、もう少しで昇りきるという所でつまずいた。ああ、また転び落ちた。傷だらけになって涙が溢れ出るが、幼子はやり直す。再び階段を昇り始めるのである。

 イエスよ、私たちも一人だけだとこうなってしまいます。無邪気な子供の強くて良き友として優しい腕で支えてください。昇りきるまで手を離さないでください。昇りきったその時こそ、あなたの慈しみ深い愛に対して幼子特有の大胆さでお応えすることができるでしょう。優しい主よ、夢中になってあなたを愛した人々が大勢いたとは言え、マリアとヨセフを別にすれば、私ほどにあなたを愛する人間は誰一人としていなかったし、今後もいないことでしょう。

少々子供じみたことをしても構わない、とあなたに勧めた。その種の行為もマンネリ化しない限り、無益ではない。

 一例を挙げよう。霊的幼児の道を歩む人が、毎晩、寝る時間になって、聖母の木像に毛布を着せたくなるとしよう。

 知性の方は、そのような振る舞いが明らかに無益に思えて、反抗する。しかし恩恵に触れた謙虚な人は、幼子なら愛に動かされてそうするだろうことがよく理解できる。

 だから、霊的に幼子である人なら、皆が備えている男らしい意志が奮起(ふんき)し、知性を屈伏させる。そして、その幼子のような人が毎日、聖母のご像に毛布をかけ続けるなら、そのちょっとした子供っぽさによって、神の目には実に実り多い行いを日毎に繰り返すことになるのである。

 本当に子供となり、幼子の道を歩むなら ― もちろん主がこの道へと導かれたらの話だが ― そのときあなたは無敵となるだろう。

 信頼しきった幼子は、「主よ、あなたを最もお喜ばせした人たちと同じ痛悔の心をお恵みください」とお願いした。

 幼子よ、万一、神とあなたとの間に誰か、あるいは何かが割り込んで来たとき、あなたは幼子でなくなる。

 私はイエスに何も願うべきではない。幼子が父親に対してするように、すべてにおいて主をお喜ばせすることと、主が何もご存じないかのように自分のことを色々お話しすることだけにしておこう。

 幼子よ、イエスに申し上げなさい。あなた以外には決して満足いたしません、と。

 霊的幼児の祈りで、これ以上子供っぽいことを主に申し上げることができるだろうか。幼子が偉大な友に愛されていることを確信し、信頼を込めて話すように、あなたは「あなたに栄光を帰することだけを目的として生きることができますように」とお話ししたのだった。

 あなたは何をしても上手くできないことを思い出し、それを正直に認める。そして付け加えた。「イエスよ、驚かないでしょう。何かをまともにやり遂げるなんて、私にはできない相談なのです。あなたが手を貸して、私の代わりになさってください。そうすれば、万事が上手くいきます」。

 さらに、あなたは大胆に話を続けたが、真理から外れてはいなかった。「どうか私をあなたの霊で満たし、酔わせてください。そうすれば、私もあなたのみ旨を果たすことができるでしょう。み旨を果たしたいのです。私がみ旨を果さないとすれば、それは、あなたの助けがないからです。しかし、私はあなたが必ず助けてくださると信じています」。

 あなたが幼くて何も持たず、弱々しい人間であることを直ぐに認める必要がある。そう感じることができれば、子としての心の中にある射祷や愛のこもった眼差しやマリア信心を実行することによって、天の御母の膝に身を投げ出すことができるだろう。

 聖母はあなたを守ってくださることだろう。

 何が起こっても自分の道に堅忍しなさい。主がすべての障害を一掃してくださるから、喜びに満ちた楽天的な心で堅忍するのだ。

 しっかり聞きなさい。戦いさえすれば、あなたは聖人になれる。私はそう確信している。

 主がお呼びになったとき、最初の弟子たちは古びた舟の傍らで、破れた網を繕っていた。主は彼らに、従えと仰せになる。すると彼らは〈すぐに〉、〈すべてを捨てて〉、何もかもすべてを捨てて、主について行った。

 私たちは使徒たちの真似をしたいと思っているが、すべてを捨て去ることが時々できない。執着心を捨て切れず、生き方にも間違いがあるのに、主への捧げものとしてそれらを捨てる気がないのである。

 あなたの心を徹底的に糾明しているだろうか。心の中に神以外のものを残しておくのは良くない。そんな状態なら、あなたも私もちゃんと主を愛していることにならない。

 聖性と使徒職への望みを誠実に、絶えず主に申し上げなさい。そうすれば哀れな器、すなわち、あなたの霊魂は壊れないだろう。万一壊れても、新たに恩恵を受けて直ぐに元に戻り、あなた自身の聖性と使徒職のために続けて役に立つだろう。

 あなたの祈りは神の子の祈りでなければならない。偽善者の祈りをすれば、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」というイエスの言葉を聞かなければならないだろう。

 あなたの祈り、つまり〈主よ、主よ〉という叫びは、毎日いろいろな形で、神のみ旨を果たすための実際的な望みと努力に結びついていなければならない。

 幼子よ、「悪魔が人々を奪ってしまうようなことが決してありませんように」と、イエスに申し上げなさい。

 神の愛があなたを選び、従えとお呼びになったのなら、あなたにはその呼びかけに応える義務だけでなく、兄弟である人々の聖性と確かな歩みを導き、それに貢献するという、より厳しい義務もある。

 歩みがきつく、辛くなっても、元気を失わないようにしなさい。キリスト者としてのあなたの約束を忠実に守るか否かは、おおよそあなた次第であると知って嬉しくならないのだろうか。

 喜びに満たされ、自由に決意を新たにしなさい。主よ、私も望んでいます、腰抜けではありますが私を頼りになさってください。

 神は、生活の場や世間、身分、人間的に高貴な野心、専門職から、あなたを引き離したりなさらない。神のお望みは、あなたがそのようなところで聖人になることである。

 額を床につけ、神のみ前に身を置いて、自分が箒(ほうき)で掃きためたゴミの山よりも汚く卑しむべき者であることを、(事実その通りなのだから)よく考えなさい。

 それにもかかわらず、主はあなたをお選びになったのである。

 あなたはいつになったら決心するのだろうか。周囲の大勢の人は、単に人間的なことのためにたくさんの犠牲を払いながら生きている。自分が神の子であることを思い出さず、おそらくは高慢心から、抜きん出たい、もっと楽な将来を手に入れたいと考え、すべてを捨てて努力している。

 ところであなたは、教会や自分の家族、同僚や友人といった甘美な重荷、つまり身を挺して働くに値する動機があるのに、一体何をしているのか。本当に責任を持って働くつもりがあるのだろうか。

 主よ、他に大勢の聖人や知恵者、金持ち、有名人がいるのに、なぜ私のような無に過ぎない者をお探しになったのですか。

 あなたの言う通りだ。そしてそうだからこそ、行いと愛で神に感謝しなければならないのである。

 イエスよ、あの博士たちは星に従いました。それと同じように、あなたの教会のすべての人が、頻繁に耳にする勧めであってもヘロデの勧めを無視し、キリスト者としての召し出しに従って、自らの道に最後まで堅忍しますように。

 贖いの実りを人々の中で、もっともっと、もっと豊かに、神的と言えるほど豊かに成長させてくださるよう、イエスにお願いしよう。

 そしてこれを実現させるため、私たちを聖母の良い子にしてくださるよう祈ろう。

 幸せになるための秘訣が知りたいのか。人々のため身を捧げて仕え、しかも感謝を期待しないことである。

 神を見つつ、愛し仕えるという動機から、司祭でなくても司祭の心で行動する、すなわち生き、そして働くなら、あなたの行いすべてが本当に超自然的な意義を持つようになり、生活全体がすべての恩恵の源に一致し続けることだろう。

私たちを待ち望んでいる無数の人々と、かくも美しく大変な責任とを前にして、時々私が考えることをあなたも考えるかもしれない。「私に、こんな大変な仕事を?」、「こんなちっぽけな私に、このようなことを?」

 そんな時には福音書を開いて、イエスがどのようにして生まれつきの盲人を癒されたかを黙想しなければならない。主は土と唾を混ぜて作った泥をお使いになった。それが見えない目に光を与える目薬だったのである。

 この泥こそ、あなたと私である。自らの弱さと無力を認め、神の恩恵と私たちの良い意志があれば、人々と自らを照らすための、そして力を与えるための目薬になれるのである。

 使徒の魂をもつ人が主に申し上げた。イエスよ、あなたは何をしてくださるべきかご存じでしょう。私は自分のために働いているのではありません。

 〈個人的な堅忍をもって〉、つまりあなた自身が堅忍して辛抱強く祈りを続ければ、効果的な働きをし、世界中に主の王国を広げるために必要な手段は、神がお与えになるだろう。

 しかし、あなたは忠実を保たなければならない。忠実を保つことができるよう必死になって祈り、願いなさい。そのように努力しているだろうか。

 主は、地上のすべての真っ当な道々に神の子が居て、理解と赦しと和合、愛と平和の種蒔きをするよう、お望みである。

 あなたは、何をするつもりなのか?

 贖いは、今この瞬間にも続いている。あなたは贖いの協力者である。また実際にそうでなければならない。

 この世でキリスト者であること、それは孤立することではない。その反対だ。すなわち、すべての人を愛し、すべての人に神愛の火をつけてあげようと望むことなのである。

 聖なる婦人よ、神の御母、私の母よ、たとえわずかの間も、全被造界の女王であり女帝であることを止めないでください。

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