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12.主の昇天(1960年5月19日 主の昇天の祝日)

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私たちの信仰は、神を信じ、神と絶えず対話を保つよう、生き生きとしていなければなりません。キリスト信者の生活は、四六時中、神の現存を保つ絶えざる祈りの生活であるべきです。キリスト信者は決して孤独ではありません。天におられ、私たちと共におられる神との絶え間ない交わりの中に生きているからです。

使徒聖パウロは、「絶えず祈りなさい」37と命じています。この使徒の戒めを思い起こして、アレクサンドリアのクレメンスは、次のように述べています。「他の人々のように特定の日だけではなく、一生の間、絶えずあらゆる方法を用いて、み言葉を救い主として王として認め、さらにみ言葉を通して御父を賛美し、礼拝するよう命じられている」38。

一日の仕事の間、わがままな傾きに克つ瞬間、友情の喜びを感じるとき、このような時には、キリスト信者はいつも神と出会うことでしょう。キリストを通して聖霊において、キリスト信者は父である神との親しい交わりに近づき、神の王国を求めて道を歩み続けるのです。その王国はこの世のものではありませんが、この世に始まり、この世で準備されるのです。

言葉とパンにおいて、聖体と祈りにおいて、キリストと交わらなければなりません。私たちの傍に本当に生きている友として、キリストと交わるのです。それはキリストが復活なさったからです。ヘブライ人への手紙にもある通り、キリストは「永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」39。

キリスト、復活されたキリストは同僚であり友です。陰の間にしか見えない友ですが、その実在によって私たちの全生活は充実し、来世に至るまで友であってほしいと思う、そのような友なのです。「“霊”と花嫁とが言う。『来てください』。これを聞く者も言うがよい、『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来てください」40。

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再び典礼は、人々と共にお過ごしになったイエス・キリストのご生涯の秘義のうち最後のもの、つまりご昇天に招いています。ベトレヘムでのご誕生以来、いろいろな出来事がありました。お生まれになったところでは、羊飼いと東の国の博士たちの礼拝をお受けになる主を見つけ、ナザレでは長年にわたって黙々と仕事をなさる主を黙想しました。パレスチナ地方を巡って神の国を人々に告げ、万人に善を施し続ける主のお供をしました。そして、ずっと後のご受難のときには、群衆がキリストを訴え、怒り狂ってキリストを虐待し、憎悪にみちて主を十字架につける恐ろしい場面に立ち会い、私たちは苦しんだのです。

しかし、その苦しみの後に、輝かしいご復活の喜びが訪れました。ご復活ほど、明らかで確固たる信仰の支えとなるものはありません。もう疑う余地さえなくなりました。しかし私たちは、あるいはまだ使徒たちのように弱いかも知れません。そこでご昇天を迎える今日、キリストにお尋ねしましょう。「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」1、私たちの惨めさや困惑がすべて消え去るのは今ですか、と。

主の与えられる返事はご昇天でした。残された私たちは、弟子たちのように、驚き悲嘆にくれて立ち尽くしてしまいます、事実、イエスが実際に傍においでにならない状態に慣れるのはそう容易なことではありません。私たちを深く愛するイエスは立ち去り、そしてお残りになる。天に昇ると同時に聖なるホスチアの形で食物としてご自分をお与えになる。このようなイエスを見ると心打たれます。しかし、人間としての主のお言葉や立居振舞・視線・微笑み・善き業に接することができないことを思うと淋しくなってきます。辛い道のりに疲れて井戸の傍にお座りになったとき2、ラザロのためにお泣きになったとき3、長く祈られたとき4、群衆に同情なさったとき5の主をもう一度近くから眺めたいと思うのです。

イエス・キリストの人性が御父の光栄にあげられるのは尤もなことだと思い、私は心から喜びました。しかし、ご昇天の日特有のこの悲しみも、主なるイエスに対する愛の表れであると思うのです。完全な神であるお方は、血肉を持った完全な人となられました。そして今、私たちから離れて天にお昇りになります。淋しく思わずにいられるでしょうか。

パンと言葉におけるイエス・キリストとの交わり

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キリストの秘義を観想することができれば、また、清い眼でイエスを見つめようと努めるならば、イエスに親しく近づくことは、今でも可能であることに気づきます。キリストは道をはっきりと示してくださいました。パンと言葉がその道なのです。ご聖体によって養われ、主のみ教えを学び実行しながら、祈りにおいて主と語りあう道のことです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」6。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」7。

これは約束以上のこと、愛の極みであり、本物の生活、言い換えれば、恩恵に満たされ、神と親しく交わることのできる生活なのです。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」8。昇天を前もって告げ知らせるとなれば、最後の晩餐の主の言葉ほど適切な言葉はないでしょう。行かなければならないことをキリストはご存じでした。私たちには理解することはできませんが、ご昇天後、至聖なる三位一体の第三のペルソナ聖霊が、神の愛の新たな溢れとして来られるはずだったからです。「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」9。

天に昇られてから、主は、人の心を支配し聖化する聖霊を送ってくださいます。慰め主の働きかけを受けるとき、私たちはキリストのお告げになったことが実現したことを知ります。私たちは神の子であり、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」10という言葉が確信できるようになるのです。

おわかりになるでしょうか。これが心の中での聖三位一体の働きかけなのです。パンと言葉、ご聖体と祈りにおける、キリストとの一致に導く恩恵に応えるならば、キリスト信者は誰でも、心の奥深くにお住まいになる神に近づくことができます。教会は、生けるパンを毎日思い起こさせるだけではなく、典礼暦に聖木曜日とご聖体の祝日という二大祝日を定めました。今日、ご昇天を祝うにあたって、イエスとの語らいに心を向け、注意深く主の言葉に耳を傾けましよう。

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祈りの生活

「わたしの命の神への祈り」11。神が人間にとって命であるならば、キリスト信者としての生活が祈りに織りなされているべきであるとしても驚くにはあたりません。しかし、祈りとは唱えればそれでおしまいで、後はすぐに忘れてしまうその場限りの行為であると考えるわけにはいきません。義人は、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ」12。朝にあなたを思い13、夕にわたしの祈りをみ前にたちのぼる香のように14。朝から晩まで、晩から朝まで二十四時間を祈りのときとすることができます。さらにそのうえ、聖書にもあるように、夢も祈りでなければなりません15。

福音書がイエスについて述べているところを思い起こしてください。しばしば、夜を徹して御父との親密な語らいにお過ごしになりました。最初の弟子たちは祈るキリストの姿に心惹かれたものです。先生の変わらない祈りの姿を何度も眺めてから、弟子たちは、「主よ、(…)わたしたちにも祈りを教えてください」16と願ったのです。

聖パウロは、「たゆまず祈りなさい」17と書き記し、キリストの生きた模範を至るところに広めました。聖ルカは初代教会の信者の生活を、「心を合わせて熱心に祈っていた」18と、わずか一筆で極めて簡潔に描写しています。

熱心なキリスト信者の気風は恩恵の助けのもとに祈りに精励することによって培われます。祈りとは命あるものですから、いつも同じ方法で成長するとは限りません。人は普通、心中の思いを言葉に表して安らぐものです。神ご自身がお教えになった〈主の祈り〉や天使が教えた〈アヴェ・マリアの祈り〉などの口祷を唱えて、心は安らぐのです。またあるときには、時の流れとともに磨きあげられ、何百万という信仰における兄弟の信心の込められた祈り、たとえば、「祈りの法典」とも言われている典礼の祈りや「天主の聖母の御保護によりすがり奉る(…)」、「慈悲深き童貞マリア、御保護によりすがりて(…)」、「元后あわれみの母、(…)」など、聖母に対する数多くの祈りのように、愛に夢中になった心から自然に湧き出る祈りを唱えます。

矢のように主に向ける二言、三言の射祷だけで十分なときもあるでしょう。キリストのご生涯を注意深く読めば、たくさんの射祷を学ぶことができます。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」19、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを」20、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」21、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」22、「わたしの主、わたしの神よ」23。その他、心の底の熱愛から湧き出た、個々の場面や状況に相応しい、短くとも愛のこもった言葉を探すことができるでしょう。

祈りの生活を送るには、そのうえ毎日、神との交わりにのみ捧げられたひとときを持たなければなりません。この祈りのひとときには、二十世紀も前から孤独のうちに待っていてくださる主に感謝するために、できる限りいつも聖櫃の傍で、多弁を弄することなく静かに語り合うのです。念祷とは、知性も、想像も、記憶も、意志もすべてを使って、つまり全霊を込め、心をあげて神と語り合うことです。人間のとるに足りない生活、毎日の平凡な生活に、超自然的価値を与えるのがこの念祷です。

念祷のひとときと、口祷や射祷があればこそ、芝居がかったこともせずにごく自然に、日常生活を神への絶えざる賛美に変えることができるのです。愛し合っている者がいつも相手に思いを馳せるように、私たちも、このような祈りのおかげで神の現存を保つことができ、最も些細なものも含めすべての行いが霊的効果に満たされるのです。

従って、特権階級の人々のためだけではなく、万人の道であるこの、主との間断ない交わりの道に分け入ると、内的生活は確実に逞しく成長し、神のみ旨を徹底的に実行するための、快くも厳しい戦いに敢然と臨むことができるのです。

祈りの生活があれば、今日の祝日が思い起こさせるもう一つのテーマ、使徒職の大切さがよくわかることでしょう。昇天の少し前にイエスは弟子たちに仰せになりました、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」24。使徒職とは、このイエスのみ教えを実行に移すことなのです。

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使徒職・救いの業への協カ

祈りの人は神との交わりを通して、ごく自然に、使徒職への大きな熱意を持つようになります。「心は内に熱し、呻いて火と燃えた」25。ここで言う燃える火とは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」26とキリストが言われた、その火以外の何物でもありません。つまり、祈りで強められる使徒職の火のことなのです。キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たすために27、信者が参加するよう召されているこの平和の戦いを、世界中至るところに拡げていく上で、祈りよりも優れた手段はほかにありません。

イエスは天に昇ってしまわれました。しかし、十二人の弟子たちがキリストに接したように、信者は、祈りと聖体において主と交わることによって、平和と喜びを蒔く救いの業を主と共に行う情熱を、燃やすことができます。使徒職とは奉仕以外の何でもありません。自己の力だけを当てにするならば、超自然の分野では何も達成できないでしょう。しかし、神の道具となるならば、すべてを獲得できるのです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」28。善い方である神は、なんの取りえもない道具を用いることにされました。従って、使徒とはご自分の人々、お選びになった人々を通して、神が救いの業を行われるように主の働きに自己を委ね、いつ何時でも主のご命令のために働く心構えを持つ人のことなのです。

使徒とは、洗礼によってキリストに接ぎ木され、キリストと一致し、堅信によってキリストのために戦う力が与えられた信者のことであり、また信者の共通の祭司職によって、世界中で行いをもって神に仕えるように召されたと自覚する信者のことであると言えます。信者の共通の祭司職は、キリストの祭司職にある程度あずかりますが、職位的祭司職とは本質的に異なり、共通の祭司職によって信者は教会の典礼に参与し、言葉と模範、祈りと償いに励み、それによって神への道を歩む人々を助ける力を受けるのです。

私たち一人ひとりが同じキリストにならなければなりません。キリストだけが神と人間との間の唯一の仲介者ですから29、キリストと共にすべてを神にお捧げするためには、キリストと一致しなければならないのです。社会の中にあって、神の子となる召命を受けた私たちが、自己の聖化を追求するだけでは十分ではありません。地上の小道を巡って、障害を打ち破り、その小道を神への近道に変えなければなりません。この世のどのような活動にも、人々と一緒に参加し、パン種30となって粉全体を膨らませ31なければならないのです。

キリストは天にお昇りになり、人間的にみて正しい事柄すべてに、救いにあずかる可能性を与えてくださいました。大聖グレゴリオは、キリスト教のこの偉大なテーマを正確に書き残しています。「イエスはこのようにして、それまで住んでおられたところを去り、以前おいでになったところに向かって出発された。事実、ご昇天のときに、その神性をもって天と地を結合された。人間に罰を与える宣告、人間を腐敗に従属させる判決が撤廃された事実を、今日の祝日に荘厳に宣言するのはよいことである。あなたは塵であり、塵にかえらねばならない(創世記3・19)という一節が示している人間の本性は、今日キリストと共に天に上げられたその本性である」32。

何度も申し上げたいことは、世界は聖化され得る、また、私たち信者にこそ、その聖化の仕事が与えられていることであります。世界を醜くする罪の機会を取り除き、世界を浄め、神の恩恵に助けられた我々の努力によって尊厳を得た世界を、霊的ホスチアとして主にお捧げする仕事が任されているのです。み言葉が人となられ、ご自分の現存と働きによってこの地上を聖別してくださって以来、高貴なもので神と関係のない物は存在しなくなりました。洗礼によって、キリストと共に世を贖うという崇高な使命を受けたのです。神の救霊のみ業の一部なりとも担うようにとキリストは私たちを駆り立てておられます33。

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「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」34である十字架の恥辱と光栄のうちに、イエスがお亡くなりになったとき完成した贖いは、神のみ旨によって主の時が訪れるまで継続するでしょう。日毎に神の御憐れみに信頼する必要があると納得しているならば、イエスの聖心に従って生き、すべての「罪人を救うため」35に、主と同じく私たちも遣わされたと感じずに生きることはできません。そこで、キリストと共に全人類を救い、キリストと共に贖い主となりたいという熱烈な希望が生まれます。私たちは「同じキリスト」であり、そうありたいと望み、キリストは、「すべての人の贖いとして御自身を献げられ」36たからです。

前途には大きな仕事が待っています。受身の態度では消極的すぎます。「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」37と、主ははっきり仰せになりました。主がその王国を完全に所有するために帰って来られるのを待っている間、手をこまねいているわけにはいきません。神のみ国を拡げる仕事は、キリストから神聖な権能を授けられたキリストの代理となる教会の聖職者のみが携わるべき課題ではないのです。「あなたがたはキリストの体であり」38と言う使徒聖パウロは、最後まで仕事を続けよと命じています。

なすべきことはたくさん残されています。二十世紀の間、何もなされなかったのでしょうか。実に多くの仕事がなされました。熱心に祖先の行ったことを過小評価するのは、客観的であるとも、正当であるとも思われません。二十世紀にわたって大事業が行われてきました、しかも多くの場合、実に立派に成就されたのです。あるときは失敗や後退もありました。しかし、今日でも、勇気や惜しみない心と同時に、後ずさり、恐怖、臆病はあります。この人類という家族は絶えず新たに入れ替わっています。それゆえ、世代毎に、神の子として召されていることの偉大さを、人々が理解するように、熱心に助け続けなければなりません。創造主と隣人への愛の掟をしっかりと伝えなければならないのです。

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キリストは明らかに神の愛の道を教えてくださいました。使徒職とは、人々に自己を捧げること、溢れ出る神の愛のことなのです。内的生活とは、パンとみ言葉を通してキリストとの一致に成長することです。そして使徒職への熱意とは、内的生活があれば当然現れるものであり、内的生活に比例するものなのです。神の愛を〈味わう〉ようになると、他人に対する責任を感じるものです。神であり人であるキリストと救いのみ業とを切り離して考えることができないのと同じように、内的生活と使徒職とを切り離して考えることはできません。人類を救うためにみ言葉が人となられたのは、人類とみ言葉とがひとつとなるためでした。「わたしたち人類のため、わたしたちの救いのために天からくだり」と、信仰宣言で唱える通りなのです。

キリスト信者にとって、使徒職は持って生まれた仕事と言えます。日々の職業・活動に外部から付加され、並べ置かれたものではありません。主がオプス・デイの創立をご計画になって以来、私はたゆまずこの事実を主張して来ました。各自がそれぞれの身分において、日常の仕事を聖化し、その仕事において自己を聖化し、また職務の遂行に際して隣人をも聖化しなければならないのです。

使徒職とはキリスト信者の呼吸と言えるでしょう。神の子であれば、この霊的鼓動なしに生きることはできません。今日の祝日は人々の救いに対する熱意が主の愛すべきご命令であることを思い起こさせます。栄光を受けるためにお昇りになるとき、私たちを地上の果てまで主の証人としてお遣わしになったのです。責任は重大です。キリストの証人になるということは、まず主のみ教えに相応しい行動をし、私たちの行いがイエスを思い起こさせ、いとも甘美なるみ姿を人々に思い出させるように戦うことであるからです。憎しみを抱かず、抱擁力をもち、狂信的にならず、本能に左右されず、犠牲を甘受し、人々に平安を与え、愛し合う私たちをみる人々が、これこそキリスト信者であると言えるように振る舞わなければなりません。

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よい麦と毒麦

私の考えではなく、キリストのみ教えに沿ってキリスト信者の理想とすべき道を描いて来ました。崇高な道で、人を惹きつける力を持つことがおわかりになるでしょう。とは言え、今日の社会でそのような生き方ができるのだろうかと問う人もいるかも知れません。

確かに、平和、平和と叫ばれてもどこにも平和のない時代に、主は私たちをお呼びになりました。心の中にも、組織にも、社会にも、民族の中にも平和はありません。平等だの、民主主義だのと、絶えず説かれていますが、閉鎖的で入ることのできない階級はたくさん残っています。私たちが召されたのは、人を理解する心が強く要求される時代です。その理解も、善意をもって振る舞い愛徳の実行を心がける人々にさえ欠けることがあるので、尚更目につく徳であると言えるでしょう。忘れてはなりません。愛徳の真髄は与えることよりも理解することにあるのです。

他人の考えを受け入れることもできない強情者や狂信的な人々が息を吹き返し、激しく荒々しく彼らの犠牲者となる人々を非難する時代に私たちは生きているのです。一致だ、一致だとやかましく騒がれるのに、人類全体は言うに及ばず、カトリック信者の中にさえ、これ以上の不和があろうとは想像もできないほどの不和に満ちた時代に私たちは神に召されたのです。

政治問題を論ずるのではありません。私の任務ではありませんから。今日の世界の情勢を司祭としての立場から述べるには、よい麦と毒麦のたとえをもう一度思い出せば十分でしょう。

「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」39。畑は肥えており、種も良質のものだった。そして畑の主人は完璧な技術をもって一番良い時期に種を蒔いただけではなく、蒔き終えたばかりの種を守るために見張りも立てたのです。後で毒麦が芽生えたとすれば、それは人々、特にキリスト信者が眠り込んでいる間に敵の侵入を許したからです。

無責任な使用人たちが、畑に毒麦が成長した理由を尋ねたときの主人の答えはあまりにも明白です。「敵の仕業だ」40。創造主の手になる世界中のよいものが、真理と善に役立つように見張るべきであったのに、私たちキリスト信者は眠り込んでしまいました。この居眠りは悲しむべき怠慢です。その間、敵と敵に仕える人々は休まずに活動していたのです。毒麦がもう非常にはびこっているのがおわかりでしょう。到るところに、たくさん蒔かれてしまったのです。

私は、不運を告げる預言者の使命は持っていません。私の言葉をもって絶望と悲嘆に満ちた展望を示すつもりはありません。主の摂理によって私たちが生きている、この時代をつぶやく意図もありません。この時代を愛しています、自己の聖化を追求すべき場なのですから。子どもっぽい無益な懐古趣味など許されません、今ほどよかった世界はかつてなかったのですから。昔から、まだ最初の十二人の宣教を直接聞くことのできた教会の揺籃期から、すでに激しい迫害が起こり、異端が始まり、虚偽が拡がり、憎悪が荒れ狂っていました。

しかし、悪が栄えているという印象を否定することも当たっていません。神の畑全体、すなわち、キリストの領地であるこの地上に、毒麦が芽を出したのです。毒麦があるというばかりではありません。実にたくさん生えているのです。永遠に進歩し、後退することなどあり得ないというような神話に欺かれてはなりません。正しい秩序に従う進歩は望ましいものであり、神にお喜びいただけます。しかし、今は偽りの進歩ばかりが誇張されます。多くの人々がこの偽りの進歩に目をくらまされてしまった結果、人類は後退することも、かつて征服したものを失うこともあり得るという事実に、しばしば気がつかないのです。

繰り返して申しますが、主は世界を遺産としてお与えくださいました。ですから、心身共に目覚めていなければなりません。敗北主義者になれと言うのではなく、現実主義者であるべきだと申し上げたいのです。悪、神への侮辱、時として人々に及ぼす償い難い害を顧みずに世界を眺めることができるのは、鈍った良心、マンネリ化に伴う鈍感な心、軽薄でそそっかしい態度だけです。私たちは楽天的でなければなりませんが、それは敗北することのない神の力ヘの信仰に基づいた楽天主義であり、自己満足や、愚かでうぬぼれの強い満足感に基づく楽天主義であってはなりません。

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平和と喜びの種蒔き

何をなすべきでしょうか。社会的・政治的危機とか文化的病や混乱を述べようとしているのではないと先ほど申しました。キリスト教の信仰の立場から、神の侮辱という厳密な意味での悪についてお話ししているのです。キリスト教の使徒職とは、政治的な計画とか既存の文化の代わりをなすものを示すことではなく、善を広め、愛を〈伝染〉させ、平和と喜びを蒔くことを意味するはずです。このような使徒職からは、どんな人にも、より一層の正義、より深い理解、一人ひとりに対するより厚い信頼などの霊的善が必ずもたらされるでしょう。

周囲には多くの人々がいます。人々の永遠の幸福を妨げる権利は私たちにはありません。私たちは、完全なキリスト信者・聖人になり、信者の模範と教えを待ち望んでいるすべての人の期待も神のお望みも、裏切ってはなりません。

使徒職は信頼に基礎を置くべきでしょう。もう一度繰り返し申し上げます。愛徳とは与えることよりむしろ理解することにあります。私が身をもって経験した、理解されないときの苦しみを隠すつもりはありません。いつも理解してもらうように努力してきましたが、私を理解しようとしなかった人もあります。これが、すべての人々を理解したいと私が望む具体的なもう一つの理由なのです。広く大きくカトリック的な心を持つべきであるという思いは、その場限りの衝動によるものではありません。人々を理解する心は神のよい子が持つキリスト教的愛徳の証拠です。毒麦ではなく、愛と平和と赦しと寛容という兄弟愛の種子を広めるために、この世の正しい道ならどの道においても働く私たちを神は必要となさるからです。たとえ相手が誰であっても、敵と思うようなことがあってはならないのです。

キリスト信者は誰とも仲良く生活し、キリスト・イエスに近づく可能性を付き合いを通して人々に与えなければなりません。商品見本か昆虫の標本のように人にレッテルを貼りつけ、既成概念で判断したり、分類・差別したりすることなく、誰のためにも喜んで自己を捧げなければなりません。キリスト信者は人から離れて孤立してはならないのです。そのようなことをすれば、利己的で惨めな生活を送ることになるでしょう。「すべての人に対してすべてのものにな」41らなければなりません。

このような奉仕の生活をしたいものです。自らの行為によって、平和と共存への望みと寛大な心を〈蒔きたい〉と思いますが、そうすれば各個人の正しい独立心が育まれ、この世の中で、一人ひとりが自己の行いの責任をとるでしょう。キリスト信者は、自己の自由を擁護するために、まず、他人の自由を尊重しなければなりません。誰でも例外なく惨めさを持ち、過失を犯しますから、あるがままの人々を受け入れる心を持たなければなりません。人々が悪を克服し、毒麦を抜き捨てることができるように、人々のために神の恩恵を願い、優しい心遣いを示さなければならないのです。そうすれば、皆が互いに助け合い、人間として、信者として、相応しく生きることができるのです。

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来世の生命

キリストが弟子たち皆にお任せになった使徒職は、このようなわけで、具体的な結果を社会にもたらします。キリスト信者であるからといって、社会に背を向けて、人間の本性に関して悲観的な考え方などできません。正しいことであればどんなに小さなことでもすべて、神的・人間的意味を秘めています。完全な人であるキリストは人間的なものを破壊するためにではなく、人間の本性を高めるために罪以外の人性をおとりになりました。悪への悲しむべき〈冒険〉を除いて人間の持つ抱負を共に分かち合うために来られたのです。

キリスト信者は常に、完全に社会の中にあって、社会を内部から聖化するつもりでなければなりません。しかし、人間の意志の弱さや罪に負けて神を否定し、愛すべき救いの計画に反する要素である悪い意味での世間に染まってはなりません。
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